■現代の文章:日本語文法講義 第6回

(2022年1月19日)

◆今までの連載 第1回 / 第2回 / 第3回 / 第4回 / 第5回

      

1 ドクターというよりも療法士に近い立場で

予定よりも6回目の連載が遅くなりました。まとまった時間が取れなくなったのです。若者たちの状況を知るために、専門学校で講師をはじめてからもう7年になります。今年度の担当が前期の1学科から、コロナの影響なのか、後期には3学科の講義を担当することになりました。

今年のスケジュールがすこし前倒しになっているらしくて1月末で講義が終わりです。研修の準備に加えて、講義の準備と試験問題の作成が重なってしまいました。もっと効率的にできたかもしれません。少しだけ工夫をしてみたということです。若者たちの様子を知ることは興味深いことですし、刺激になります。手抜きをするのはもったいないのです。

日本人の学生と留学生、対面の講義とオンラインの講義とを行ってきました。いい経験だったと思います。またいつか、あれこれ思ったことについて語ることもあるでしょう。

20世紀から21世紀にかけてのことですが、およそ10年ほど失語症の方々とのお付き合いがありました。日本語の文法についてモノを言いだすようになったのは、それからです。失語症の言語訓練を見ていると、かなりずれているなあと感じました。そもそも日本語についての理解がおかしいと思ったのです。

しかし残念ながら、会話が成り立つかたにお会いすることはありませんでした。言語訓練に効果がないというニュアンスを感じとるだけで、感情的で攻撃的な言葉を吐く人までいましたから無理な話です。失語症友の会の副会長をしていましたから、いろいろありました。療法士から信じられないメールをいただいたり。いまはそんなことはないでしょう。

この分野を代表するドクターから、言語訓練の効果についてエビデンスがないというお話を直接お聞きしたことがあります。うんざりするように、感情的な反発しかないんだよとおっしゃっていました。どんな分野でも、こういうことがあるのでしょう。

現行の日本語文法について、おかしいという人はたくさんいるはずです。私もそう思っています。おそらく文法学者でも、そう思っている人が多いことでしょう。だから学者の方々も、あれこれモノを言いつづけています。

ただ、私の立場は学者の方々とは違います。文法学者がいわばドクターというべき存在だとすると、私の場合、療法士に近い立場でモノを言おうとしているのです。書くこと、読むことに役立つ文法でなくてはなりません。そういう前提で文法を考えています。

訓練方法と効果の検証が不可欠になります。効果がないとは何事かと主張しても、笑われるだけです。効果のあるルールを辛抱強く探し求めるしかないでしょう。幸いなことに、小学1年生にも作文を教えていましたから、ヒントをもらっています。

言語野に障碍があって言葉が不自由になった失語症のかたがたの訓練とは別に、まだ言語野の発達しない小学生の様子から、言語野が発達していく過程を感じ取ることができました。こうしたことも踏まえて語っていきます。ちょっと雑談のように寄り道をしました。そしてまた、しばらくこんな風にのらりくらりの話になります。

      

2 蘭学の意義

岡田英弘が『日本史の誕生』で、[英語を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確立することになった]と記していました。前回言及したことです。そのとき触れませんでしたが、英語に先だって蘭学が盛んになったことをご存知でしょう。

英語を学ぶ前段階に蘭学がありました。『解体新書』の完成が1774年と言われています。ドイツ語からオランダ語に訳された医学書を日本語に翻訳したものでした。ここで注目したいのは、蘭学の翻訳方法のことです。

『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)には「オランダが伝えた西欧文明の第二波」という項目があります。[十六世紀の後半にはじまったキリシタンの日本への布教活動]が[日本にうちよせたヨーロッパ文明の第一波]であり、[天主教を先にたてたポルトガル、スペインによる]ものでした(p.119)。

これに続いた第二波がオランダとの関係です。[ヨーロッパ文明の第二波が、オランダ一国を通して長期に、しかも緩慢に日本に浸透し](pp.122-123.)ました。日本では東南アジア諸地域のような経済混乱と植民地化が起こらなかった結果、[日本ではヨーロッパの学術を消化するゆとりにも恵まれた]といえます(p.123)。

こうした科学的恩恵のなかでも[先頭に立つのがオランダ医学であった](pp..127-128)ということです。[オランダ医学を深く修めようとすれば、オランダ語の習得はかならず必要となる](p.128)。そして[三年半の辛苦の末にその出版にこぎつけた]のが≪解体新書≫でした(p.130)。

[第一波であったポルトガル、スペインの場合][宣教師は、布教の目的で日本を訪れたのであり][彼らの側から日本語に接近する、むしろ積極的な姿勢をとっていた](p.135)のですが、しかし第二波では[日本人の側からオランダ語に接近しようとする積極性にその特色がある]ということになります(p.136)。

オランダ語の翻訳がさかんになり、[長崎の話すオランダ語から、江戸の読むオランダ語が独立した](p.130)のです。では翻訳するときに、どういう方法をとったのでしょうか。[漢文訓読という長い経験がものをいった]のです(pp..148-149)。

つまり[この種の漢文訓読流は、実際に蘭学塾で実行されたばかりでなく、幕末明治以降、蘭学が英仏独などの新洋学に座を譲ったのちまでもうけつがれ、そこから日本語の中に新しい言い回しをうむことになる](p.150)のでした。

とはいえ、これによって日本語が近代化されたわけではありません。[日本の近代化の道が、遠く蘭学に一つの源をもっていたということ](p.151)です。蘭学は重要な経験でした。

なぜならば、[言語というものの性質として、言語現象の展開におけるその速度が、他のもろもろの文化形態とちがい、きわめて緩慢である](p.118)からです。このことも含めて、英語の受容の仕方を見ていく必要があります。

    

       

3 ヨーロッパ文化という新しい刺激

日本が近代化するときに、どんな過程をたどったのか、歴史家の話を確認しておきましょう。宮崎市定は『アジア史概説』で「日本近代化の成功した原因」という見出しで書いています。

[ヨーロッパに発生した産業革命文化はヨーロッパ自身の形貌を一変させる一方、それが世界各地に広まっていく]、そのとき東アジアではどうだったのでしょうか。

▼日本だけは例外的にヨーロッパ文化に順応し、一方ではヨーロッパ化しながら、一方ではその民族的独立を保つことができた。この現象を普通に近代化とよぶが、それならば、どうして日本だけそれが可能だったのであろうか。 『宮崎市定全集18』:p.409

当然のように、[日本の近代化の場合も、いろいろな条件が作用した]に違いないが、[何がもっとも有利な条件であったこちう分析を行うことはある程度まで可能である](p.410)として、3つの条件を上げています。

▼まず挙げられることは、明治維新に先だっておよそ三百年近い長期の平和があったということである。こんなに長く継続した平和は世界の歴史上にちょっと例がない。日本はこの間に文化的・経済的な遅れを取り戻すことができた。それは学問、芸術、工芸、商業、産業、すべての部門において見られる。 『宮崎市定全集18』:p.410

具体的には、[中国の影響下に日本にも独自の南画が栄え][産業では養蚕が盛んになり、木綿が栽培され、鉱山が開発され、寝殿造りのための土木工事も盛んになった]のです。そして、ここで注目すべきことは、次の点です。

▼すべてのものが江戸時代において既に限界に達し、さらに新段階に飛躍するためには、何か新しい刺激が必要になっていた。そしてその新しい刺激とは、ヨーロッパ文化に他ならないことが、一部識者の間には、はっきり認識されていたのである。 『宮崎市定全集18』:p.410

これが一部の識者だけにとどまらなかったのです。[一つ幸いしたのは、徳川時代の日本人は中国的な奢侈を知らなかったこと]でした。もし必要以上の贅沢をしていたなら、中国の支配階級のように[ヨーロッパ文化に接触しても][なんらそれに魅力を感じなかった]でしょう(p.410)。それが第2の条件です。

日本の場合、[文化・文政のころから著しい中国趣味ブームが捲おこ]り、[生活を豊かにする中国的文人趣味がようやく日本人の視界の中に入ってきた]のでした。[生活の安定は、より高度な生活程度を目指すようにな]り、[そこへ今度は南蛮趣味が入ってきた](p.411)ということです。

絵画における遠近法や木版に変わる銅板での印刷がさらに[望遠鏡、時計の範囲に及べば、すぐ形成実用の学となり、科学の原理探求の学に結びつく]ことになりました。つまり[ヨーロッパ文化を受容する素地はすでに徳川時代において形成されていた]のです(p.411)。

第3の条件として[世界の国際関係もまた、日本に幸いしていたといえる。それは列強の勢力関係がほぼ均衡していて、一国の独走を許さなかった](p.411)という点があげられます。そのため日本は独立を維持できたのでした。

もう一度確認しておきましょう。
[1] 日本はヨーロッパ文明の恩恵を享受するために、積極的にオランダ語の翻訳を行いました。
[2] 長期間の平和が続いたため、[日本ではヨーロッパの学術を消化するゆとりにも恵まれた]のでした。
[3] しかしオランダ語の翻訳の方法は漢文訓読の方法であり、この方法には限界がありました。
[4] [ヨーロッパ文化を受容する素地はすでに徳川時代において形成されていた]ものの、[さらに新段階に飛躍するためには、何か新しい刺激が必要]だったのです。

もうお気づきかもしれません。[新しい刺激とは、ヨーロッパ文化に他ならない]のです。漢文訓読の方法では限界があります。新しい方法が必要でした。それが英文法だということになります。

    

      

4 リンドレー・マリー(Murray)の『英文法』

1795年、リンドレー・マリー(Murray:マレーとも)の『英文法』が出版されました。これがそれ以降の英文法の標準になります。渡部昇一は『秘術としての文法』(講談社学術文庫)で[ただ一つの文典が英語国を支配すると言ってもあまり誇張でないような状況が現出する](p.223)と記しました。

あるいは『スタンダード英語講座[3] 英語の歴史』(1983年大修館)で、渡部は[われわれが学校文法、あるいは伝統文法として学んだ規則は、多くの点においてMurrayから由来する](p.270)と語っています。

おなじく渡部の『英文法を知ってますか』によると、日本最初の英文法といわれる渋川六蔵敬直(ヒロナオ)の『英文鑑』も[マリーの二十六版からオランダ語に訳したものから渋川が重訳したものとされている](p.210)とのこと。この本の刊行が1841年でした。

これ以降、マリーの英文法の基本を引き継ぎ、いわば[マリーの英文法の簡約版をさらに簡約にしたもの](p.211)が刊行されていきます。[開国前後の日本の英語の勉強はマリーから始まったと言えるであろう](p.212)ということです。

ではその英文法の内容はどういうものであったのでしょうか。『秘術としての文法』所収の「英文法の成立」によると、[マレーの文法はいまから見て驚くようなところはない。つまりわれわれが知っているような、あの学校文典がそこにある](p.224)のです。

『秘術としての文法』で渡部は、Murrayの英文法の特徴を4つあげています。
①品詞分類を 9品詞とし
②名詞の格を 主格・所有格・目的格とし
③法(mood)を復活させ、時制は過去・現在・未来の基本時制に、完了形を配した6つ
④接続詞を用いた複文を重視

[以上の特徴はいまでは陳腐に見えるかもしれないが、それはマレー以前の二百五十年間の英文法の混乱、よく言えば極端な多様性を知らない人の言うことである](p.225)と渡部は記します。

漢文訓読に変わる新しい方法が、日本人の英語学習が本格化する少し前に成立していたということです。それが1795年に成立し、その後繰り返し改訂されたマリーの英文法でした。

緒方洪庵が蘭学の私塾「適塾」を大阪で開いたのが1838年。そこで学んだ福沢諭吉が、横浜で英語に出会って、読み書きができないことに衝撃を受けた話が『福翁自伝』にあります。それが1859年です。

わたしたちは[十九世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、ことに英語を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確立することになった]と、岡田英弘は『日本史の誕生』で指摘していました(ちくま文庫:pp..329-330)。

もっと具体的に渡部昇一は記しています。もう一度引用するなら、以下の通りです。

▼学校の英語で「直訳」し、入試英語で「直訳」して、意味は何とか通ずるが奇妙な日本語を「書く」ことによって、日本のインテリは最も集中的な日本語作文の訓練をしたのであった。そうして育ったインテリの日本語が、現代の日本の「標準的書き言葉」を形成しているのである。 『レトリックの時代』:講談社学術文庫 p.243

[英語で「直訳」]するときに使ったのは、マリーに由来する英文法の方法だったということになります。それは学校文法とか伝統文法とか呼ばれるものです。現代日本語の散文を開発し確立させるときに、英文法の発想が影響を与えないはずはありません。

岡田の言う通り、[英語を基礎として、あらためて現代日本語が開発され]たのでした。その方法から、日本語の変容を見ていく必要があるでしょう。