■日本古代史の構築のために:小路田泰直『卑弥呼と天皇制』から

     

1 整合的な説明が必要

日本の古代について、よくわからないことだらけなのですが、そうした歴史をどのように構築していくのか、その方法に関心があります。古事記や日本書紀を信じない学者もいましたが、歴史的遺物の発掘などから、あてにならないとは言えなくなってきました。

しかし古事記や日本書紀だけでは、古代史を構築することはできません。いわゆる「魏志倭人伝」などのチャイナ文献と、日本国内の古墳や歴史的な遺物などからもアプローチしていくことになるでしょう。これらを整合的に説明できることが必要になります。

小路田泰直(コジタ・ヤスナオ)は『卑弥呼と天皇制』で、1922年の笠井信也説を取り上げて、日本海経由で邪馬台国=大和に到達したという見解を支持しました。「魏志倭人伝」の「南」を「東」と読み替えるならば、整合性が成り立つということです。

     

2 日本海ルートの合理性

日本海ルートならば、魏志倭人伝の経路が上手に説明できます。北九州の「不弥国」から水行20日で「投馬国=出雲」に到達し、出雲から若狭湾岸まで水行10日、そこから「陸行一月」で大和に到達ということです。裏づけとなる北條芳隆の研究もあります。

▼北條氏は、魏の皇帝から卑弥呼に送られたことが確かな、魏の年号の入った紀年銘鏡が瀬戸内海側からは殆ど出土せず、日本海側から多く出土している事実に照らして、邪馬台国にとっていかに日本海側交通が重要であったかを明らかにした。 p.39

さらに若狭湾から、瀬戸内海までのルートが、日本海に注ぐ由良川と、瀬戸内海に注ぐ加古川の、低い土地の分水界になっている点も補強になります。検索してみると、「石生(イソウ)の水分れ」と呼ばれる、本州で最も低い中央分水界のことだとありました。

     

3 考えるヒントとなる日本古代史構築の方法

箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性は、きわめて高くなっています。[纏向遺跡の発見や、最古の前方後円墳・箸墓の建設年代の四世紀から三世紀への比定変更]などの[考古学の発展がそれを決定的にした](p.38)のでした。箸墓は径百余歩(約150m)の規模です。

そうなると、卑弥呼は倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメ)ということになります。日本書紀に言及されていますから、どういう人物だったかの記録もあります。笠井信也の見解が、100年近くかけて検証されてきた形です。最有力説として、無視できなくなりました。

日本と中国の文献と考古学の発展によって、だんだん古代日本の姿が見えてきています。小路田泰直の『卑弥呼と天皇制』は、笠井説の発展的な見解を示す本です。この本を手引きにして、笠井説とは異なる宮崎市定の見解を読むと、新たな視点で読める気がします。

資料が不十分な中、いかに整合性のある見解を構築していくのか、考えるヒントになりそうです。日本古代史を構築するアプローチは、何がポイントになり、どういうところに目を付けるべきかの参考になります。その意味からも小路田の本は読む価値のある本です。