■須賀敦子と谷崎潤一郎:名文家の文章トレーニング
1 カタカナの重圧を跳ね返す文章
現代の名文家の一人に須賀敦子がいます。この人の書く文章のファンはたくさんいますから、名文家だなどとあえて言うまでもないことでしょう。須賀の文章を読む人は、誰もがその文章の長さとわかりやすさに驚きます。心地よく、すらすら読めてしまうのです。
須賀がエッセイを書きだしたのは61歳のときで、まだ無名でした。いきなり登場して69歳で亡くなります。5冊のエッセイが残りました。『須賀敦子を読む』を書いた湯川豊は、文藝春秋の編集者だったとき須賀担当だったとのこと。
[須賀敦子の文章には、注目すべき特徴が二つある]と書いています。[一つは、文章の息が長く、ゆったりしていること]、[二つ目の特徴は、カタカナの多用ということである]。一つ目は当然ですが、二つ目のカタカナの多用の方は、言われて気づきます。
[カタカナの重圧と呼びたい]ほど、[西洋の人や物を語る対象にしたばあいには誰にも避けられない]カタカナの多用が起こるのです。[須賀のように洗練された日本語を書こうとする場合、この重圧は一層強くのしかかってくる]。
ところが[私たちは須賀の文章の気品と優雅がカタカナに妨げられているとはほとんど感じない。これはただならぬ熟練といえる]。その通りなのです。まさに名文家というべきでしょう。長文の上、カタカナが多くても、どうして気持ちよく読めるのでしょうか。
2 谷崎を思い出させる須賀の文章
過去を振り返りながら思いを語る文章の場合、[読点を多用して記憶をまさぐるようにどこまでも折れ曲がっていくこうした文章がふさわしいし、生理的にもかなっているのだろう]と湯川は言い、ペルージャの菩提樹の花の香りを語った文章を引用しています。
▼昼下がりにタクシーで駅から着き、フィオレンツォ・ディ・ロレンツォ通りのカパーナ家の前に立ち、三階の窓からのぞいた小母さんに(その時間帯が、イタリアでは午睡のときだということさえ私は知らなかった)、パリで覚えてきた、だとだとしいイタリア語で名乗りをあげていた自分がすっぽり包まれていたのも、あの薫りだったし、その夕方、大学に学生登録をしに行く長い道すじに、そして夕食後、スクーターの音がうるさくて眠れないあの寝室に入ったとき、部屋いちめんにたちこめていたものもあの薫りだった。
昼下がり、夕方、夕食後と文章の中で時間が経過していき、そのいつのときでも、菩提樹の花の薫りに満たされていたのです。この時間の流れの記憶に分け入って[どこまでも折れ曲がっていく]文章の効果を[プルーストの大長編で私たちは]知っています。
それを日本語行っているのです。[ゆったりした長い息づかいをもっているが、情緒にぼやけるところが少しもない]。もう一人の作家が思い出されます。[私は谷崎潤一郎の文章を思い出した]。谷崎の文章は、言いたいことがきちんと伝わる文章だと言われます。
3 文章トレーニングの方法
谷崎の文章は長くて、[ものやわらかな感じをもつのだけれど、接続語の用い方は周到で正確だから、文章は一読した印象よりもずっと論理的なのである]。[普通なら句点で一区切りつけるべきところでもあえて読点で押し通す]ということもしています。
こうした[語り手の息遣いを感じさせるのは、須賀の文章の特徴でもある]。実際、[須賀敦子は一時期谷崎を愛読した]のです。読んだだけでなく[日本文学のイタリア語訳の仕事に打ち込んだ。その中心に谷崎作品があって][イタリア語訳を出版して]います。
またイタリア語から日本語へも、[須賀は生涯にわたって翻訳をせっせと行っていた]。「イタリア語と日本語の両側からの翻訳は、須賀自身の文章にとってもまたとないトレーニングになったはずである」と湯川は書いています。
自分でも翻訳が好きだと言っていた須賀は、違った文構造をもつ言語の翻訳によって、文章の骨格を意識していったはずです。谷崎も翻訳をやり、いわゆる欧文の構造で日本語を書く時期を持っています。その効用について『文章読本』でも触れています。
▼初学者に取っては、一応日本文で西洋流に組み立てた方が覚え易いと云うのであったら、それも一次の便法として已むを得ないでありましょう。ですが、そんな風にして、曲がりなりにも文章が書けるようになりましたならば、今度はあまり文法のことを考えずに、文法のために措かれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国分の持つ簡素な形式に還元するように心がけるのが、名文を書く秘訣の一つなのであります。
「西洋流に組み立てた」文章を作る練習をして、それが可能になったら、日本語らしい表現に直していくということでしょう。谷崎も須賀も、骨格のしっかりした論理的な文章を書き、その基礎の上に洗練された表現をする訓練をしたということのようです。