■星新一の訳した『竹取物語』について
1 「原文に忠実」な訳文
星新一の訳した『竹取物語』には驚かされました。何でもないように見えますが、原文と合わせてみると、これはすごい訳文です。しかしこの訳が意外なほど知られていません。残念です。いったん入手困難になっていたようでしたが、いまは容易に手に入ります。
現代語訳ですから、原文と大きく離れているわけではありませんが、逐語訳とはかなり趣が違います。[ひとつの試みとして、私なりの現代語訳をやってみた。心がけた第一は、できるだけ物語作者の立場に近づいてみようとしたこと]と星は書いています。
[原文に忠実なようつとめたが]と言いますが、[自分なりの工夫も加え]とあるところがポイントになります。「原文に忠実」ということが、結果としてどういう訳文になっているのか、具体的に見たほうがよいでしょう。物語のはじめの部分を比べてみます。
▼原文
今は昔、竹取の翁といふもの有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづの事につかひける。名をば讃岐の造麻呂となむいひける。▼星新一訳
むかし、竹取じいさんと呼ばれる人がいた。名はミヤツコ。時には、讃岐の造麻呂と、もっともらしく名乗ったりする。
野や山に出かけて、竹を取ってきて、さまざまな品を作る。
笠、竿、笊、籠、筆、箱、筒、箸。
たけのこは料理用。そのほか、すだれ、ふるい、かんざし、どれも竹カンムリの字だ。
自分でも作り、職人たちに売ることもある。竹については、くわしいのだ。
物語の初めだから、わかりやすくしたのでしょう。しかし普通の感覚からすると、とても原文に忠実とは言えないでしょう。しかし、読んでみると違和感がないのです。すらすら読めてしまいます。古典がこのスピードで読めるというのがとても快適です。
2 どこでも通用する話
星は『竹取物語』のどこに惹かれたのでしょうか。[訳していて気がついたことだが、かぐや姫が天空の外の人であった点を除けば、何の飛躍もない]、[『竹取物語』では、超自然的な発想は一つだけで、あとは人間的なドラマである。だから、すなおに面白い]。
鬼や化け物が出てきたり、動物がしゃべったりといったことがなく、また[寓意のないのがいい]と言い、[面白い話は、決してなにかを押しつけない]と記します。[『竹取』はストーリーが主で、どこの土地でも通用する話なのだ]というのが星の考えです。
星は、この物語の成立を想像しています。一気に書き上げたものではなくて、[話すのが好きで、さまざまな物語を作って話し、その反応の中から手法を身につけ、まとめて書き残すかとの気持ちになった結果と思う]。話して作った物語の強さがあります。
[姫がいかに美人かの描写もなく、思いを寄せる男性たちの年齢、顔つきも不明。心理描写だって、簡単なものだ]。つまり、[発想とストーリーとで、人を引き込んでしまうのだ。構成に自信あればこそだ]と『竹取物語』の創作の基本を指摘します。
3 面白さの原点に戻った現代語訳
星の現代語訳は、話して聞かせるように、聞いてわかるように言葉を選んでいます。注釈なしに意味がすっきりわかるように、スピード感を持って読んでいける文章になっています。これが「できるだけ物語作者の立場に近づいてみようとした」結果の訳文です。
[最も参考になったのは、吉行淳之介訳『好色一代男』]と言い、[吉行さんが、あえて『一代男』を手掛けたのは、なぜか。作者の西鶴が花鳥風月に反逆し、面白さの原点に戻ろうとした点にあるらしい]と書いています。星の場合も同じだったのでしょう。
▼描写を押えると、読者や聞き手は、自分の体験でその人のイメージを作ってくれ、話にとけ込んでくれる。
そのパワーが失われると、季節描写や心理描写に逃げ、つまらなくなる。
ストーリーの面白さが大切だということになります。どうやらチベットの民話の中にも『竹取物語』と類似の話があるようです。[面白くて作者不明だと、いかに早く広まるか]と言うことでしょう。『竹取物語』の面白さは、このことでも裏づけられています。
訳文の長さは原文の3倍近い量になっていますが、それでも百数十ページです。日本のはじめての物語が現代文で違和感なく読めます。ストーリーが面白ければ、世界で通用するようです。[私も自作を何回も流用されているので、よくわかる]と星は書いています。