■マニュアルに忠実ということ:トスカニーニとフルトヴェングラー

 

1 業務マニュアルと楽譜の類似

業務マニュアルは楽譜に似ています。業務における楽譜の存在にあたるものが業務マニュアルです。こういう言い方をすると、業務マニュアルの機能がどんなものであるか、わかりやすくなるかもしれません。前にも書いていました[新しい業務マニュアルの概念]。

『新しい現実』でドラッカーは、<情報型組織には、具体的な行動に翻訳できる明確で単純な共通の目標が必要である>と言い、その例として楽譜をあげています。音楽評論家の吉田秀和の発言(1959年3月『現代芸術』)からも、楽譜の性格が見えてきます。

楽譜は音楽的思考の記録として決して完全なものじゃない。早い話が、フォルテといいアレグロといっても、どのくらい強く、どのくらい早く弾くか。楽段の区切りでテンポをどうもって行くか。たとえばベートーヴェンならベートーヴェンの場合はアレグロといってもハイドンのそれと違う。

楽譜にすべてが書かれているわけではないということです。その通りにすれば正確に再現できるというものではなくて、音楽を作るための指針となるものです。業務の指針となるものが業務マニュアルですから、その意味で楽譜は業務マニュアルと類似の存在です。

 

2 指針をどう使うかが問題

実際の仕事をする人たちがいてはじめて、業務の指針となる業務マニュアルが意味を持つようになります。演奏家が楽譜をみて、それをもとに音楽を作っていくのと同じことです。楽譜に息を吹き込むのが演奏家だということになります。当然のことでしょう。

問題になるのは、指針となる業務マニュアルをどう使っていくのかという点です。個人が良心に従って、これがよいという方法をとれば、その結果よい業務になると言えるでしょうか。簡単にそういいきれません。そんなに単純なものではなさそうです。

業務マニュアルができたから、それを示しさえすればよい業務がおのずから形成されていくわけではありません。業務マニュアルができたら終わりというわけでなくて、どう使うか、よい利用のために何をする必要があるのか、そうした点が重要になります。

 

3 楽譜に忠実ということ

演奏家はどうやって音楽を作っていくのでしょうか。楽譜をもとに、どういう方法で音楽にしていくのか、そのことが気になります。先に引いた吉田の言葉は丸山真男との対談で語られたものですが、このとき問題になったのが楽譜の読み方の問題でした。

トスカニーニとフルトヴェングラーとの演奏の違いを語っています。楽譜に対するアプローチが違うのです。楽譜の記述は音楽家によっても違いますし、<演奏家の個性による変化をうけてきた>ものです。こうした従来からの影響をどうするかが問題でした。

<トスカニーニという人は指揮者として革命的な人なんですが、それはつまり、一口に言って、楽譜に忠実にやる行き方です>。楽譜の曖昧さや影響など<そういうものを一切無視しちゃって、あくまでも譜面どおりにイン・テンポでやる>ということです。

標準化の方法に似ています。<非常に科学的である、あるいは合理主義的で>す。トスカニーニが<イタリーの芸術家である>点を吉田は指摘しています。<ルネサンス以来のヒューマニズムというものは、非常に普遍的な理性的な態度>であったということです。

 

4 理想・使命にあたるものが大切

譜面どおりというトスカニーニの手法は、<普遍的な理性的な>アプローチです。吉田は言います。<トスカニーニのそういう演奏は、いわば機械化され能率化された世界にぴったりなんですね>。これは標準化することで製品・サービスの質を上げる手法でした。

レベルを超えたものであれば<イタリーであろうとアメリカであろうとパリであろうと、世界のどこに行っても通用するんです>。しかしこれだけでは物足りません。別の手法がほしくなります。この点、フルトヴェングラーのアプローチは何かを考えさせます。

フルトヴェングラーの場合はまさにこれと反対で、ドイツの聴衆に聞かせるときが、その音楽が一番生きてくる。そこには、同じ音楽的伝統で育った公衆が必要である。フルトヴェングラーにとっては演奏が抽象的に存在するのでなくて音楽を共鳴し理解する公衆が必要なんで、その理想的なものは、彼と同じ伝統を持ったドイツの公衆でなくちゃならない。

理想を追うとき、誰にでも通用するという発想を捨てざるをえないのかもしれません。結果として広く支持されたのはフルトヴェングラーの演奏のほうでした。楽譜という共通目標に加えて、理想というか使命のようなものが大切であるということかもしれません。