■小西甚一の示す「すじみち」:コンテンツ作りの教科書
1 「体系的」と「すじみち」
小西甚一の『国文法ちかみち』は、アメリカの語学教育の優れた方法を取り入れて記述しています。<勉強の「方法」>が<アメリカ流の訓練主義で貫かれている>ため楽ではありませんが効果はあります。私はこの本をコンテンツ作りの教科書だと思っています。
<助動詞を勉強する目標として、どの文法書でも、(1)活用・(2)接続・(3)意味(用法)の三点をあげている>、この本では、<まず(1)だけ勉強することにしよう>と言い、<わたくしの特許権を申請したく思うすてきな勉強法である>と言い添えます。
こうした勉強法を、コチコチ頭の文法学者は、とかく「体系的でない」といって軽視したがる。日本の学者たちは、実に体系的ということが好きである。しかし、それは、日本の学界が明治このかたあまりにもドイツ系の学問に親しみすぎたからであって、私の考えでは、何もそれほど体系なんかにこだわらなくったって、学問は学問だと思う。
小西は従来の方法を批判して<「すじみち」の立て方さえわかれば、体系は後まわしで結構>と言います。初版がでたのは1959年でした。時代は大きく変わっています。いまや「体系的」とは「すじみち」のことでしょう。まさに「すじみち」が必要なのです。
2 形式から意味のほうへ
小西は基礎を重視して、<100パーセント完全でなければ、零点なのだと理解していただきたい>と書いています。同時に<例外のない文法なんかは存在しない><原則を原則としてとらえ、例外を例外としてはっきりさせる>ことが大切だと主張します。
しっかり文法を学んだ上で、<文法を忘れたまえ>と書いています。そして坂田藤十郎という役者の話を紹介します。セリフを完全に覚えた後、いちど忘れ、<その役の人物になりきって、心の底からセリフを言うと、ほんとうに生き生きした演技になる>と。
これは<学校で「国語」を勉強する目的が正しく美しい日本語の修得に在る>という仮定に基づく提言でした。この目的のために、<形式を主とした話からはじめて、だんだん意味の方へ移って行く>という方針が採られています。「体系的」な構成です。
3 「すじみち」を通す考え方の訓練
文法上の意味や職能を考える場合、<ある共通の形式をもつ言葉について帰納的に観察されるとき、はじめて正しくとらえられる>という橋本文法の基本原則を小西は採用します。「文節」を認め、<文節がどんなふうに文を作るかを調べる>ことになります。
文節に基づいて、<「何が」にあたる文節を主語><「どうである」にあたる文節を述語>、こうした<関係のしかたを主述関係>とするのが基本になります。<文節を認めることによって、文法の研究は、ぐんと科学的な確かさを増したといってよい>のです。
小西は常識にも平然と異議だてを行います。<日本語は膠着、英語は屈折、シナ語は孤立>という常識に対して、「我的面上」の「的」は日本語の「の」に相当し、「Please write to me.」の「to」も膠着語的だと指摘し、安直なレッテル貼りに従いません。
日本語で単語をつなぐのは助詞ですが、<すべての助詞がニカワの役目をするとは限らない>と指摘し、<「ひとすじ縄」ではゆかない>と注意しています。<文法を勉強するほんとうの目的は、ものごとの「すじみち」を通す考え方の訓練だ>ということです。