■ビジネス文書の掟:吉田秀和の「批評」論
1 文学者の書く音楽の話
先日ご紹介した『炎の作文塾』の著者は川村二郎、元週刊朝日の編集長だった人です。この川村二郎とは別の、川村二郎という学者がいます。ドイツ文学者で文芸批評家です。折口信夫の『死者の書』を日本近代小説の最高の成果だと評価した人でした。
この人の退職記念文集があります。『プリスマ 川村二郎をめぐる変奏』という題名の本に、多数の関係者が文章を寄せています。その中に、吉田秀和の文章がありました。「退屈の発見」という題のエッセイで、評論と批評の区別について一筆書きしています。
高橋英夫の『フルトヴェングラーの「発見」』という文章を取り上げて吉田は言います。この文章は<フルトヴェングラーを語るようでいて、「退屈の発見」についての思想>を書いているようだ、<文学者の書く音楽の話には、こういう例が少なくない>…と。
2 共通認識を前提にする
<文学の世界では評論と批評の区別>があるらしく、<「退屈の発見」は前者に属するのではなかろうか>…と吉田は言います。吉田自身は、<私のような哀れな批評家>と言って、文学者の評論とは一線を画す立場を明確にしています。
批評家は、退屈について語る前に、フルトヴェングラーが退屈かどうか、そうだとすればどんな具合に退屈か、どこがどうだから退屈か、といったことに、言葉を費やしておくのが、読者への義務である。
批評家の場合、「退屈とは何か」という点を既知とする暗黙の了解があります。<「退屈とは何か」について><深く掘り下げるに当たらないという具合に筆が進んでゆく>のです。共通認識を前提にして、そこから論じることになります。
川村の文章が評論の面を持ちながら、<この曲のどこにどういう特徴があるので、筆者はかくかく考えるという筋道が、私のいう「批評」と同じ手続きを経て、展開されていた>と指摘しています。川村のこの「律儀さ」を吉田は評価しています。
3 「批評」とビジネス文書の掟
吉田のいう「批評」は、そのままビジネス文書の掟になります。ビジネスをする以上、共通認識を置く必要があります。誤解を生みそうなら、その用語を定義した上で書き進めていきます。共通認識自体を議論しないのが原則です。
逆に必要なことは、吉田の事例で言えば、共通認識となる評価基準をもとに、「この曲のどこにどういう特徴がある」と測定し、「筆者はかくかく考える」という判断を示す筋道です。これがビジネスにおける当事者の書くべきことです。
その判断を示す手続きには、(1)「フルトヴェングラーが退屈かどうか」という自らの結論を示すこと、(2)「どんな具合に退屈か」という自分なりの評価を示すこと、(3)「どこがどうだから退屈か」という理由づけとなる事例を示すこと…が必要となります。
4 追記:検証可能な形式
吉田秀和が圧倒的な文章家であることの秘密の一端が、ここで明らかになっていると思います。言葉の選び方、その文章のリズムは、まさに耳が良いと言うべきでしょう。しかし、それだけではないのです。正統派の論理展開をかたくなに守っています。
物事を明確に表現して伝えるためには、前提となる論理構成が安定したものでなくてはなりません。ものの認識には、行動があって(たとえば音楽を聴いて)、それをある基準にそって測定して、それを他のものと比較する…という過程が必要です。
そのときの評価基準が共通認識に根ざしたもの、つまり読むものに納得できる基準でなくては説得力がありません。吉田の場合、「どんな具合か」という測定結果を示し、その結果の判定を示すことで、あわせてその評価基準を示している…ということです。
ビジネス文書は、検証可能な形で書かれる必要があります。共通認識があってこそ、検証することができます。「業」とは連続して行うこと、一回性でないということです。したがって検証が必要であり、共通認識の設置が必要不可欠だということになります。