■日本語の修飾語句:三省堂『大辞林』編集長・山本康一氏の講演を聞いて
1 講演「辞書は誰が作るもの?」
先日、辞書作りをしている人達の話をお聞きする機会がありました。BPIA・目からウロコのビジネスモデル研究会(2015年7月28日)でのことでした。三省堂『大辞林』編集長である山本康一氏の「辞書は誰が作るもの?」というお話でした。
日本語の用語とその用例をカード化してたくさん集めて、それらを選定して辞書を作っていくお話でした。語釈の検討も大切な作業です。「女嫌い」という語の語釈に「女性が嫌いな男性」という案があったので却下したそうです。
「女性が嫌いな男性」では、(a)女性からみて嫌いな男性のことなのか、(b)女性のことが嫌いな男性のことなのか不明確なので却下となったようです。ただ、「女嫌い」の項目に書かれていたなら、誤解する人はほとんどいなかったと思います。
2 「女性が嫌いな男性」と主体
「女性が嫌いな男性」という言い方が不明確になるのは、主体が不明確だからです。ここにAという男性を想定してみましょう。<Aは「女性が嫌いな男性」です>なら、Aは女性嫌いなのでしょう。<「女性が嫌いな男性」はAです>なら、Aは嫌われています。
ただ、「女性が嫌いな男性」が主体側にあるのか、述部側にあるのかで意味が変わるのは当然のことです。「男性」だけにした場合でも、<Aは男性です><男性はAです>…とニュアンスが変わります。主体・述部が明確なら、意味上の混乱は起きません。
今回の用例の場合、修飾のされ方が問題でした。「女性が嫌い」が、「男性」を修飾する場合の問題です。「女性が嫌い」を見て、「女性が」が主体で、「嫌い」が述部だと感じる人は例外でしょう。この助詞「が」は主体を示していません。
「女性が」は、主体が対象とするものを表しています。状態の文型なのです。好き嫌いにあたることを表現する時に、対象者・対象物に「が」がつく文型です。用例で問題になったのは、状態を表す「が」と、主体を表す「が」が混乱を起こすということでした。
3 状態を表す表現
「好き・嫌い」は積極的というより、自然に起こるものだとみなされます。「懐かしい」もこの範疇です。一方、「愛する」「愛している」なら積極性があるため、行為という扱いになります。自然に起こる感情だからこそ、状態を表すのにふさわしいのでしょう。
こうした「好き・嫌い」の状態を表す語句を修飾語にする場合、<こういう状態の誰・何>という言い方がなされます。この場合、助詞「が」が欠落します。「動物好きの少年」となります。「動物が好きの少年」は成り立ちません。
助詞「が」を残す場合、<こういう状態な誰・何>といえます。「動物が好きな少年」という風に言います。用例もこれに当たります。しかし本来、主体は人間がなるものですから、人間に「が」がつくと主体だと感じる現象が起こります。
誤解を避けるため<こういう状態な誰>をやめて、助詞「が」のない<こういう状態の誰>を使えばよいのです。「女性嫌いの男性」なら誤解されません。<こういう状態という誰>も可能ですが、「女性が嫌いという男性」となりますから、冗長な感じがします。
4 自動詞・他動詞の区別
「私はモーツァルトが好きだ」などの状態を表す文型に現れる「モーツァルトが」という要素をどう見るか、まだ通説はなさそうです。希望を表す述部の場合、限界事例のようです。「私はテレビが見たい」でも「私はテレビを見たい」でも違和感がありません。
一般的な用語で言うと、「テレビが」「テレビを」は目的語に近いのでしょう。ただ、日本語の場合、明確な目的格が形成されていません。このあたりは、「辞書は誰が作るもの?」での質問にも現れていました。
『大辞林』に自動詞・他動詞の区別が記載されていない点について、山本氏は、日本語の場合、目的語が明確でないからと答えていました。つまり、自動詞・他動詞の区別がはっきりしない日本語に目的格の概念を持ち込むのは無理だと言うべきでしょう。
状態を表す文型では、主体の対象を示す語句に助詞「が」を接続させます。修飾の場面では、「が」をとらない行為の表現の方が誤解されないはずです。「女性が嫌いな男性」も、行為の表現の形式「女性を嫌う男性」にしたなら問題なかったのでしょう。