■使える日本語文法のために 1/2:北原保雄『日本語文法の焦点』を参考に
1 日本語に主語がないという見解
日本語の文法を使えるようにするにはどうしたら良いのでしょうか。簡単に答えは出ません。ふと文法学者の考えをのぞいて見る気になりました。北原保雄『日本語文法の焦点』には、いくつか気になることが書かれていました。
北原は『佐伯文法―形成過程とその特質』を編集しています。この本は、森野宗明と小松英雄との3人による編集です。小松英雄は、日本語の文法を構築しなおすべしと言った人です。3人のうち現代語の文法を書いているのは北原です。少し期待しました。
北原の基本的な考えは、<日本語には主語があるかという問いの答えは、ない、ということになる><主格と主題という術語があれば十分であり、また、そのほうが妥当である>というものです。主語の定義が決まっていないという点も指摘しています。
2 表現形式を重視する立場
主語がなく、主題と主格があるという立場は、助詞「は」と「が」を形式的に分ける立場になりがちです。「私はリンゴは食べた」という例文を出しています。「私は」も「リンゴは」も、ともに主題になります。前者が全体的主題で、後者が相対的主題だそうです。
「私がリンゴが好きだ」という例文では、「私が」は主観的主格で、「リンゴが」は客観的主格とのことです。どうも無理をしていますが、助詞「は」と「が」の役割分担を言いたいのでしょう。形式的に両者の違いがわかるのがよいという価値観があるようです。
北原の主張によると、<動作や情意の主体を表すものが主語だというのは、表現そのものよりも表現された事象のほうを重視する考え方であって>好ましくなく、<表現そのもののほうを重視し、表現に即して考えるのが文法的な考え方である>ということです。
表現そのもののほうを重視すると言うのは、なかなか微妙な言い方です。普通の人なら、言いたいことを適切に表すことが重要だと考えるはずです。受け取る側にきちんと伝わりやすい文を書くべきです。表現から言って、2つの例文は不適切な文です。
3 主体概念を排除したツケ
文法学者だけに任せておくと、使える文法にならないのかもしれません。先の例文「私はリンゴは食べた」について、<「私は」と「リンゴは」の違いを明らかにするためには、「は」を格助詞に変えてみるといい>と北原は言うのです。
「私がリンゴを食べた」になるから、<「私は」は主格であり、「リンゴは」は目的格であるということが分明になる>と書いています。その通りでしょう。ただ表現そのものを重視するなら、格助詞に変えて機能を説明するのは不適切なことでした。
主体という概念を排除すると、こうした矛盾が出てくるのです。<「私がリンゴを食べる。」という文において、「食べる」という動作の主体は「私」であり、動作の対象は「リンゴ」である>と北原は書いています。これを基本にすれば良いだけです。
ところが、<論理的には確かにそうであるが、「…が、…が」という構造の文が日本語に厳として存在することも、事実として認めなければならない>と言い、「…が、…が」について「主観的主格」と「客観的主格」であるとの苦しい説明をしています。(つづく)