■日本語の論理プロセスについて:膠着語の語順

 

1 手紙の宛先のスタイル

日本語の文章は、ずいぶん、わかりやすくなってきたようです。「時と空間との矛盾的自己同一的に自己自身を形成する世界の時間面的自己限定として…」。これは、西田幾太郎の文章です。『日本語は進化する』で加賀野井秀一が引用して悪文だと書いています。

たしかに進化しているのかもしれません。痛快です。この本の最終章で、加賀野井は、手紙で宛先を書くとき、東京都中央区銀座というように、大きなカテゴリーから小さなものへと限定していく日本流は、西洋流より優れている…と書いています。

たしかに大きなカテゴリーから徐々に絞られていく思考は、自然だと思います。しかし、<日本語の主語・述語と呼ばれるものの働きは、まさにこの宛名書きの形式に一致する>と言われると、大丈夫かなと心配になります。

 

2 日本語は「帰納的」だという説

ラッセルが『哲学入門』の中で、英語の語順を思考一般にあてはめて考えようとしていました。語順と思考法には関係があるかもしれません。しかし、日本語に適応させるのは無理がありました。一方、加賀野井は、日本流と西洋流とを対比して考えます。

西洋語の論理は、「AはBである。なぜなら、~であり、~であり、~であるからだ」という論理であり、<「既定的」「演繹的」「対立的」とならざるを得ない>、<日本語の論理のほうが、実は、はるかに「発見的」であり「創造的」なのだ>…とのこと。

明確化の歩みが、<広範な領野から次第に絞り込まれていく>形式をとる日本語は、「帰納的」であり、日本語の主語・述語の働きが、宛名書きのスタイルと同じ形式をとっていると指摘します。ずいぶん単純化した考えです。

 

3 妥当でない例文:主語と述語の働き

「象は鼻が長い」を例に、<この表現は、「象は」と言って、語るべき主題を提示し、さらにこの主題のなかで「鼻」を限定する>と加賀野井は解説します。「象」から「鼻」への絞り込みだけで、「広範な領野から次第に絞り込ま」れると言うのは無理でしょう。

さらに例文が、<主語をめぐる議論で有名になった>ものであり、<「象は」が主語か「鼻が」が主語か、など論じることはやめにして>と加賀野井は書いています。これでは、<主語・述語と呼ばれるものの働き>の例文としてふさわしくありません。

「果物のなかで、みかんが一番好きです」なら、広い概念を限定していく語順になっていますが、「みかんが、果物のなかで一番好きです」には、妥当しません。「象は哺乳類です」の場合、象よりも哺乳類のほうが広い概念になります。単純化は危険です。

 

4 語順から論理を探るのは無理

日本流と西洋流という単純な対比は、わかりやすいのかもしれません。宛先の記述の仕方は標準化されており、そこに日本流と西洋流があることも確かです。しかし、それをもって「日本語の論理のプロセス」と考えるのは、乱暴でしょう。

「の」に関する事例なら、「日本流」が成立するかもしれません。佐佐木信綱の「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」という事例が思い浮かびます。ただ、主語・述語の事例ではありません。こういう表現形式があるというにとどまります。

言葉は思考の道具です。使われる言葉をもとに思考法を探りたくなるのはわかります。しかし、いささか強引でした。日本語は膠着語です。膠着語の語順は、かなり自由です。日本語の語順から、日本語の論理のプロセスを導き出すのは、簡単ではありません。