■2つのモノの見方

▼言語の構造と思考の形式

哲学者は、言語を基礎に、自分の哲学を構築する傾向があります。世界で一番読まれている哲学入門の本は、ラッセル『哲学入門』でしょう。この本には、こんな一節があります。

「デスデモナはキャシオを愛している」とオセロが判断するとき、オセロが主体であり、デスデモナ・愛すること・キャシオは対象である。主体と対象をまとめて、判断の構成要素と呼ぼう。判断するという関係には、「向き」や「方向」といってよいものがあることを押さえておこう。比喩的に言うなら、判断は、その対象をある順序に並べるものである。

ラッセルの主張は、英語という言語の特徴そのものになっています。物事を判断するときの道筋を、ラッセルが分析すると、英語という言語の特徴そのものになっています。英語という言語の特徴から自由になれないのでしょうか。

英語は、言葉の要素をどういう順番に並べるかによって、意味が決定される言語です。主体のあとに動詞が続く形式です。いわゆる「S+V」という語順が基本になります。この英語の言葉としての構造を、ラッセルは、そのまま思考の仕組みに取り入れています。

≪比喩的に言うなら、判断は、その対象をある順序に並べるものである≫…とラッセルは言いました。しかし、日本語のように、語順が決定的な役割を果たさない膠着語には当てはまりません。正直なラッセルは、後になって、こうした考えを自分で否定しています。

 

▼2つの見方:「見えている」と「描こうとして見る」

言葉は、考える道具です。私たちは、言葉に依存して考えています。だからといって、言葉の構造をそのまま思考に当てはめると、おかしなことになります。この点、少し考えてみたいと思います。

文ではなくて、絵のほうからアプローチしてみたいと思います。物を見るという点から考えてみたいと思います。ヴァレリーが、物を見るときの二つの姿勢について、書いています。『ドガ ダンスデッサン』(『ドガに就いて』)で提示したものです。

それを描こうとすると、それは今までとは別なものとなり、我々は、その形を今まで知らないでいたのであって、それを本当に見たことはまだ一度もなかったのを感じる。すなわち目はそのときまで単に仲介の役割を務めていたに過ぎない。

「ただ見えている」のと、それを「描こうとして見る」のでは、見方が違うということです。思考についても同じだろうと思います。考えていることを正確に伝えようとして、的確な表現を探しだそうとすると、簡単には言葉にならなくなります。

表現を探りだす過程で、的確な言葉を見出すなら、わたしたちは「本当に見た」ことに近づけるはずです。少なくとも自分で判断したことになる、と考えられます。表現する言葉を文に記すとき、言葉の要素をどう組み立てるかという思考が、働きます。

そのとき、言葉は「単に仲介の役割を務めていたに過ぎない」存在ではなくなり、自分の思考そのものになります。考える力が言葉に反映されることになります。同時に思考が、言語形式の単なる反映から離れて、もっと普遍性を持つはずです。

 

▼思いつきの言葉に支配されないこと

まとめましょう。私たちは話すように、そのとき思いついたままの言葉に支配されてはいけないということです。自分の思考を正確に、的確に示すために、文を組み立てる必要があります。翻訳可能な文という言い方をするとき、こうした状態を思い描いています。

英文法を確立したラウスは、自分の使っている言語を材料にして、文の根幹を成す原理を追求していく文法的アプローチが、他言語の習得を容易にすると主張していたそうです。母語との格闘が、翻訳可能な文を形成するという私の考えの裏づけになります。

私たちは、ときにこれは正しいぞと思うことがあります。そんなとき、自分の考えをどう表現したらよいか、追及してみたらいかがでしょうか。スピードが求められる環境の中にいると、「本当に見る」ことをしないままになるリスクがあります。

形にするためには、きっちり見ることが必要です。繰り返し描かないとデッサン力はつきません。油絵教室(渋谷油絵教室)でデッサンを描き続けている私は痛感しています。文書を作る作業でも同じことだと思います。

 


▼文章力向上のために

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