■現代の文章:日本語文法講義 第17回 「文末概念の機能と条件」

(2022年5月10日)

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1 機械処理の視点・発想

前回、述語という概念が、曖昧なものであって、文法学者も正面からあまり論じていないことを指摘しました。小学生、中学生相手なら、学校文法の述語の説明でも強引に納得させてしまうことも可能かもしれません。以下が、橋本武の『中学生のやさしい文法』(初版1972年)での説明でした。

[1] 日本語の文には基本タイプが三つあり、[これらの文節相互の関係を公式化]すると、「ナニガ-ドウスル」「ナニガ-ドンナダ」「ナニガ-ナンダ」となります。
[2] このうちの[「ドウスル」「ドンナダ」「ナンダ」の部分、つまり、主題に対して述べている部分を「述語」という]のです。

社会人にとっては、何となく物足りない説明でしょう。文法学者も分かっていたはずです。[日本語の文には基本タイプが三つあり]の部分が補強され、述語の中核となる言葉の品詞が「動詞・形容詞・名詞」からなっているという説明になりました。

これをさらに発展させたのが「動詞文・形容詞文・名詞文」です。述語の品詞によって[日本語の文]の[基本タイプが三つ]になりました。これで、少し格好がつくようになったかもしれません。しかし、こんなことで満足してはいけないのでしょう。

そこで登場したのが、「ボイス、テンス、アスペクト、モダリティ」でした。小西甚一が『古文の読解』で[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解だろうな](p.239)と言ったのを思い出すことになります。いわゆる述語を分解してみせたのです。

ここで前回、残っていた問題がありました。原沢伊都夫の『日本人のための日本語文法入門』で[述語(+ボイス+アスペクト+テンス)+ムード](p.144)と書いていたことの確認ができていませんでした。

原沢の本にある「ムード」は、他の本で「モダリティ」と記載されているものと、ほぼ同じ概念だといってよいでしょう。

[述語(+ボイス+アスペクト+テンス)+ムード]という記述の仕方を見ると、「文末」=「述語(+ボイス+アスペクト+テンス)」+「モダリティ(ムード)」ということになりそうです。

「狭義の述語」は中核となる動詞・形容詞・動詞にあたる部分であり、「広義の述語」は「狭義の述語」+「ボイス・アスペクト・テンス」ということになるでしょう。そうなると、「モダリティ(ムード)」は述語ではないと考えられます。

どうやら、この理解で正しいようです。1989年に出版された日本語教師向けのテキストである吉川武時『日本語文法入門』に、このあたりを明確にしている記述があります。以下のように、興味深い考えです。

▼最近、機械翻訳が注目されている。機械翻訳の目的で日本語を分析するとき、「格文法」という理論を用いると考えやすいという。格文法では、まず最初に、文を「核文」(Proposition)と「モダリティー」(Modality)とに分ける。つまり、文は「核文」と「モダリティ」とから成るとするのである。 p.10 吉川武時『日本語文法入門』

[「核文」は、日本語文法で言う構造文型にあたり、「モダリティー」は、表現文型にあたる]とのこと。[核文(Proposition)……構造文型(補語 述語)]という図式的な記述がなされていて、以下のように説明が示されています。

▼核文は、述語とその述語の意味を完全にするための補語とから成る。述語になるのは、動詞、形容詞、名詞+「だ」である。 p.10 吉川武時『日本語文法入門』

この記述から見ても当然のように、ここでも動詞文、形容詞文、名詞文という分類が示されます。
[動詞を述語とする文……動詞文]
[形容詞を述語とする文……形容詞文]
[名詞+「だ」を述語とする文……名詞文]

日本語の文法に関する一般的な説明は、こんなところかもしれません。文末から「モダリティ」を切り離し、述語を切り出した上に、これを「+ボイス+アスペクト+テンス」に分解・分析しています。

しかし、こんなことをしても、読み書きの役には立ちません。吉川武時が『日本語文法入門』で説明するように、機械処理の視点・発想に近いものを感じます。こうした発想の違いがある以上、人間が読み書きするための文法と、別概念の文法になっていても仕方ないということでしょう。

そういえば…と思いだします。日本語入力のアプリケーションを作ってきた人たちが、日本語に関心を持ちだすと、品詞分解にかたよった分類を行いがちだと聞いたことがありました。機械側の発想に立てば、そうなるのかもしれません。

私たちはセンテンスを着地させるときに、文末の最後が大切なのはよくわかっています。文末で「…である」「…ではない」「…だろう」「…かもしれない」といった使い分けを間違うことは、まずありません。もし間違えたのなら、なんらかの言い間違いでしょう。

間違いようがないのは、文末を一体的に認識しているからです。以下、このあたりを見ていきましょう。

     

       

2 「文末」概念の役割・機能

日本語の基本的なセンテンスを示す「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」というフレーズを知っていると思います。前回も、これに触れました。ここで大切なのは、どんなことだったでしょうか。品詞分解よりも、文の構造の問題が問題でした。

日本語のセンテンスを構成するキーワードは、文末と対応した関係を作ります。文末が、センテンスのキーワードを束ねているという言い方もできるでしょう。以下のようになっています。

・いつ   …どうした
・どこで  …どうした
・誰が   …どうした
・何を   …どうした

ここで「どうした」が「どうしている」「どうしているだろう」「どうしているかもしれない」となっても文末の機能は変わりません。

・いつ   …どうしているかもしれない
・どこで  …どうしているかもしれない
・誰が   …どうしているかもしれない
・何を   …どうしているかもしれない

キーワードを束ねる文末は一体でなくてはならないのです。文末が要になって、その前のキーワードを束ね、センテンスの意味を確定することになります。センテンスの意味の確定するのは、まさに文の終わりということです。

このように文末の機能と言えるものは3つにまとめることができます。

(1) キーワードを束ねる役割・機能
(2) 文の意味を確定する役割・機能
(3) 文を終える役割・機能

文章を読み書きする発想からすると、こうした役割・機能をもつ文末概念を使ったほうが、しっくりくるのです。俗な言い方ですが、よく伝わる用語として、「文末」という言葉が使えるかもしれません。

どうしても、「述語」という概念を基礎にして、日本語散文の読み書きを考えるのは難しい気がするのです。だからと言って、文末概念を使えば、すべて問題解決というわけにはいかないでしょう。ことはそう単純ではありません。

前回でもふれた修飾の問題は「文末概念」によって、うまく説明できるものです。まずこれを確認しておきましょう。文末がキーワードを束ねる役割を果たしますから、逆にキーワードが何であるのかが判別できます。前回のものを少しだけ複雑にして、確認してみましょう。

「今日私は、市の図書館で高校時代に担任だった先生の本を見つけた。」

a 今日         …見つけた
b 私は、        …見つけた
c 市の       × …見つけた
d 図書館で       …見つけた
e 高校時代に    × …見つけた
f 担任だった先生の × …見つけた
g 本を         …見つけた

以上をみると、センテンスのキーワードといえるものは「a/b/d/g」だとわかります。「c/e/f」はそのあとの言葉を修飾しているということです。「c+d」がまとまって、「市の図書館で」が一体化したキーフレーズになっています。

「e/f/g」の場合、「e→f」という風にかかり、これがさらに「(e→f)→g」という形で修飾しているのが分かるでしょう。ここでは「高校時代に担任だった先生の」が「本を」を修飾しています。結局、「e+f+g」がまとまって「高校時代に担任だった先生の本を」と一体化しているのです。

このように文末の範囲が明確な場合、キーワードを明確にすることが容易にできます。述語よりも、ずっと「文末概念」の方が、読み書きに使えるものでしょう。しかし、ことはそう簡単にはいきません。簡単な例文を使って、確認しておく必要があります。

      

3 文末概念を使うための前提

「私は彼に会いに行った」という例文の意味が分からない人はいないはずです。しかし文末との対応関係を作ろうとすると、簡単にいかないことに気づきます。

・私は   …行った
・彼に  ×…行った
・会いに  …行った

先の、aからgまで並べた事例のように、修飾とも言えないのです。「彼に」が「会いに」を修飾しているわけではありません。文末というのは、対応関係を考えたうえで決まるものです。一方的には決まりません。

対応関係を基本にすると、以下のように考えるのが合理的だということになります。

・私は   …会いに行った
・彼に   …会いに行った

この例文の場合、文末が拡大しているのです。文末の一体化といえます。しかし「会いに」が「行った」と一体化するのはどういうことなのでしょうか。こうした点を明確にしない限り、簡単に文末概念は使えません。

これはキーワードの概念と関連しています。対応関係を生み出すのは、キーワードと文末ですから、両者の関係が明確にならないと、それぞれの概念も明確にならないものです。同時に、もう何となくわかっている方もいるかもしれません。これは一度気がつけば、わかる話でもあるのです。

これまでキーワードと呼んてきたセンテンスの中核となる言葉が、すべて単一の要素であるのなら問題ありません。これらが単一の要素でなかったとしたら、どうでしょうか。

先の例文でいえば、「私は」と「彼に」ではセンテンス内での役割・機能に違いがあると考えられます。同じ要素と扱ってしまうと、問題が生じる可能性があるのです。

「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」というフレーズに即して考えてみましょう。「いつ」、「どこで」、「誰が」、「何を」というこれらについて、キーワードだと言いました。しかし、これらのキーワードはセンテンス内で、同じ働きをしていると考えてよいのでしょうか。

これはなかなか面倒な問題です。一筆書きにするには、問題が大きすぎます。これらについては、次回以降、もう少しまとまった形で論じましょう。実際、その前に明確にすべきことがあります。文末概念を論じる価値があるかどうかにかかわることです。

「行った」ではなく、「会いに行った」と一体化した場合の効果について、敢えて論じるだけの価値があるでしょうか。もっと具体的に言えば、「私は行った」と「私は会いに行った」では、どんな意味の差が生じるのかということです。

講義なら、これを直接聞いてみたい気がします。じつのところ、講義ではありませんが、直接聞いてみたことがありました。「私は行った」はただ行っただけです。そこまでは、すぐに答えます。「私は・会いに行った」になると、どうでしょうか。

優秀な人は、「会うために・行った」ということじゃないかと言いだしました。その通りです。「会うために行く」ということは、どんなふうに行くのでしょうか。こう確認してみたのですが、さすがの優等生も、ここで止まってしまいました。

それで、「会うために行く」ときには、ただ「行く」だけのときと違って、何をするでしょうか、と確認したのです。お見事! 会うために行くのだから、会う準備をしていくはずだということでした。

「会う」という目的をもって「行った」のですから、事前に連絡くらいはしているでしょうし、待ち合わせ場所も決まっていた可能性があります。

「私は彼に会いに行った」というセンテンスを見たら、私は、彼と連絡をとって、「いついつ・どこで」といった事前準備をして会ったのだろうと推測がつくはずです。文末に吸収された「会いに」というのは目的を表しているということになります。

これは一つの例でしかありません。それも、ささやかな例でしかありませんが、文末の概念を明確にすることによって、センテンスの意味を明確にする可能性があること、この点について、何となくお分かりいただけるだろうと思います。

文末の概念を明確にするためには、先に述べた通り、キーワードの概念を明確にすることが必要です。もう少し、この点を詰めなくてはいけません。

おそらく「述語」でも同じなのだと思います。日本語文法で使われてきた「述語」の概念は、どうにも使いにくいものです。初学者向けの説明でも、なかなか簡単に説明できていません。説明に苦労している要因の一つに、センテンスの要素をどうとらえたらよいのかという問題があります。

主語・述語という言い方がなされるように、両者の概念が明確になってこないと、簡単に片方だけを説明することは、むずかしそうです。逆に言うと、述語の説明が必ずしも丁寧になされていませんから、主語の説明も同じ程度でも仕方ないということになります。

小西甚一が『古文の読解』で示したように、術語に依存しないようにして、説明していくことが必要です。[術語をなるべく少なくし、文法現象そのものを考えさせる](p.198)ことが大切だろうと思います。なかなか大変そうです。

    

      

4 「の」「こと」による名詞化

文末について、前回積み残した点がありました。最後に、これについても触れておきたいと思います。

日本語散文が発展する過程で、言文一致の流れから文末表現が確立してきました。前回の最後に記した通り、ビジネス文の文末の標準も安定しています。

あえて言うまでもないことですが、標準という以上、これとは違った表現をしてはいけないというわけではありません。実際のところ、この標準の表現になっていない事例をあげるのに、そう苦労することはないでしょう。

ひとまず現代の日本語で記されるビジネス文の文末の標準形を確認しておきましょう。

[1] 名詞  丁寧体【+です】/通常体【+である】
[2] 形容詞 丁寧体【+です】/通常体【終止形】
[3] 動詞  丁寧体【+ます】/通常体【終止形】

この標準形に、もう一つ問題が加わります。例えば「彼が合格したのである」「彼が合格したのです」という言い方が可能です。こうした点について、触れておいた方がいいと思いました。

通常の言い方なら「彼が合格した」でしょうし、丁寧な言い方なら「彼は合格しました」になるでしょう。「合格した」に「の」がついて、「のである」「のです」となっています。

「の」がついただけにすぎませんが、しかし「の」がなかったら、動詞の後に「です」や「である」の接続はできません。「の」だけでなくて「こと」でも同じことが起こります。「彼が合格したことである」「彼が合格したことです」という言い方は可能です。

動詞だけでなくて、形容詞も見ておきましょう。「この庭の花は美しい」という言い方は、「この庭の花は美しいです」という言い方が可能です。ここに「の」をつけてみると、「この庭の花は美しいのです」になります。

2つの方法で「です」をつけることが可能になりました。それだけではありません。「この庭の花は美しいのである」という言い方も可能になります。これはどういうことでしょうか。

先の例なら、「合格した」は動詞の終止形ですから、そのままでは「である」や「です」は接続しません。ここに「の」や「こと」が接続されると、その前が体言化、つまりは名詞化されることになります。名詞化されたなら、「です」「である」が接続可能です。

「美しい」のように形容詞の場合、通常体なら終止形、丁寧体なら「です」となるのが文末表現の標準でした。「美しい」に「の」や「こと」が加わって体言化・名詞化されたなら、名詞に接続する「です」や「である」が接続可能になります。

動詞の場合、「動詞終止形」「動詞+ます」に加えて、「動詞+のである」「動詞+ことである」「動詞+のです」「動詞+ことです」という形を取ることが出来ます。

形容詞の場合、「形容詞終止形」「形容詞+です」に加えて、「形容詞+のである」「形容詞+ことである」「形容詞+のです」「形容詞+ことです」という形を取ることが可能です。

これは文末特有の問題ではなくて、「の」「こと」による名詞化・体言化の一般的な現象です。名詞化されれば、文末に置かなくてはいけないわけではありません。「彼が合格したのは」「彼が合格したことは」という言い方が可能になります。

これは動詞に限りません。形容詞でも同じように表現できます。たとえば「あの庭の花が美しいのは」「あの庭の花が美しいことは」という言い方が可能です。

「の」「こと」による名詞化は、文末表現が名詞に接続する形になるだけではなく、あらゆる場面で名詞扱いになるという文法現象としてとらえられます。文末特有のものではありません。

文末に関して大切なことは、名詞扱いになろうが、動詞や形容詞の場合であろうが、通常体と丁寧体の両方が対になるように両者が成立するということです。そして、通常体も丁寧体も文末としての同じ機能を持っているということが大切になります。