■「ですます調」と「である調」の文体について

 

1 「ですます」調で書いて「である」調に直す

中井久夫は『私の日本語雑記』の最後に「日本語文を書くための古いノートから」という章を置いています。[若い精神科医に科学論文の文章の書き方について尋ねられたことがある。それを多少取捨選択して要約]したものだと言います。

前回、この章を参考に中井の論文の書き方を見てみました。そのとき中井の重要な言及について、書きませんでした。その代わりに前回「です・ます」体でない書き方をしてみました。これは中井の言及した点に関係していることです。

中井は言います。ある程度考えがまとまったら[少しずつ書いてみる]こと、[全部でなくとも、手書きを試みる]。手書きをすると、[文体の選択がおのずと行われる]と書いています。そうなのかもしれません。立ち止まって考える価値のある指摘です。

▼どうにも書きにくいときには「ですます」調で書いて「である」調に直す。一般に文体には丁寧さと硬さ柔らかさに数段階ある。基本的にはそれをそろえ、時に破調を交える。ここでは文章の冗漫さは問わない。

 

2 外からの説明と内からの説明

「話すように書く」人はたしかにいるようです。しゃべった内容がそのまま論文になるような学者がいたというエピソードも残っています。ただそのときの口調が論文の一般的な文体の「である」だったとまで確認できませんでした。どうだったのでしょうか。

中井は「ですます」調で書くほうが書きやすいと感じているようです。中井は論文の内容をそうとう詰めてから書き出すことを想定しているようです。よくわかっていることの場合、「ですます」調のほうが書きやすいという傾向があるのかもしれません。

こうした「ですます」と「である」の違いには、単に文末の調子が違うだけでは済まないものがあります。文体の違いは内容にも影響が及ぶはずです。内田義彦は『経済学史講義』の「あとがき」で「ですます」と「ある」の違いについて言及しています。

▼この本では、「です」を基調に、「ある」を交えている。「です」が基調になったのは、さいしょ、テープからプリントを作るとき、「ある」になおす時間がなかったからである。(「ある」になおすと発想全体がかわり、構文をすっかり改めねばならぬことがあるという、初歩的な、しかし極めて重大なこともそのとき気がついた。)

この発想の違いについて内田は書いています。[「です」調は、思想を外から説明するには有効であっても、思想を内からとらえるにはまったくもって有効でないということも同時に気がついた]。考える際には「ですます調」を使っていないのかもしれません。

 

3 文末を確認することの重要性

中井の言うことをもう一度振り返ってみましょう。論文が書けるだけの考えがまとまったと思ったら、手で書いてみたらよい、よくわかっているなら少なくとも「ですます調」で説明できる。それを必要に応じて「である」に直せばよい…とも言えるでしょう。

しかし「ですます」の文末には弱点があります。内田の『経済学史講義』での指摘です。[「です」が重なることによって全体がだらだらして結局わからなくなったり、逆に、「です」という説明体の挿入で思想がぶち切られて、思考過程の全体がつたわらない]。

そのため[「ある」と「です」との無意識の混用は、私のもっともきらうところだが]、『講義』では[両者を意識的に併用している]。思考過程を追うときには[「だ」または「ある」を用いることにした]のでした。しかしこの試みは成功していません。

「である」にも問題があります。中井は[「ですます」調で書いて「である」調に直す]と記した引用文の最後に[ここでは文章の冗漫さは問わない]と付記していました。書いたあと、原稿をプリントアウトして校正することの必要性を指摘しているのです。

▼機械で打ったテキストは変換、抹消、追加が一瞬にできるすぐれた校正刷りである。ここで冗漫さ、特に「なのだ」「なのである」「あるのである」のたぐいの語末冗句を削除する。私は、「のである」は「ここで振り返ってもう一度少し前に遡ってください」という交通標識に限るようにしている。「なのだ」は「!」の代わりであるが、押しつけがましく、また、音が美しくない。

文末をどうするかという文体の問題に安直な解決はなさそうです。説明的な文章ならば「ですます」調も可能ですが、論理重視の文章の場合、文末に注意しながら「である調」で書くのが原則となります。ビジネス文書も「である」中心にならざるを得ません。

 

 

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