■業務の指針を記述するとき:肯定と否定の表現の効果
1 肯定と否定の言い方
何かを言うときに、肯定の表現のほうが良いというイメージがあります。先日、話が文末の肯定と否定に及んだとき、何となく儒教の教えには肯定形が多く、キリスト教の教えには否定の言い方が多いという印象を語りました。
深く考えてのことではなくて、どこかで読んだ気がしました。その後、これは違う…と思い始めていました。論語に「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」とあります。否定形ですから、儒教の教えが肯定形とはいえません。
さらに具合いの悪いことに、新約聖書の言葉に「己の欲する所を人に施せ」という言葉がありますから、キリスト教の教えが否定の言い方であるともいえません。この2つの事例でいうと、全く逆のことになります。
2 否定の言い方はわかりやすい
こんな間違いをしたのは、山本七平『指導者の帝王学』の一節が印象的だったからだと、後から思い返しました。この本はカセットテープ集12巻の音声を文章化したものです。1巻を1章十数ページにまとめた、エッセンス集のような読み物です。
儒教の教え方は、「~であるなかれ」ではなく、常に「~であれ」という言い方をする。儒教の影響を強く受けている「教育勅語」の中にも一言として、「~であるなかれ」という言葉は出てこない。すべて「~であれ」という言い方になっている。
こう言って『貞観政要』の9つの徳目を語ります。その際、鮮やかな手法を示しました。<『旧約聖書』は常に「~するなかれ」というかたちになっている>、こうした否定の形式のほうが記憶に強く残ると大脳生理学者が言っているそうです。
それにそって肯定を否定の言い方に変えています。例えば、「柔にして立(柔和だが事が処理できる)」という徳目を、「刺々しいくせに、事が処理できない」と言い変えています。たしかに否定の言い方のほうが、明確でわかりやすい気がします。
3 「否定+肯定」のパターン
業務の指針をわかりやすく記述しようとするとき、この肯定形と否定形の問題が出てきます。肯定の形式が良いのか、否定の形式が良いのか、迷っている組織もあります。その時、肯定の表現のほうが良いですよね…とおっしゃる方がいます。
上記の「刺々しいくせに事が処理できない」の事例にあるように、否定はわかりやすい場合がしばしばあります。否定形を排除するのではなく、否定と肯定の両者を上手に組み合わせると効果がある…というお話をすることにしています。
とくに使えるのは、「刺々しくなく、柔和に」のように、先にダメな例を示して否定し、そのあとに肯定すべきことを示す方法です。「~ではありません、~です」という「否定+肯定」のパターンは、わかりやすく、よく伝わることが多い形式だと思います。