■個性的であることと正確であること:内田義彦『読書と社会科学』を参考に
1 標準化と個性
いくら会社にルールがあったとしても、仕事の進め方は各人少しずつ違います。同じようにはいきません。同じ種類の仕事でも、その都度、各人の違いを感じます。こうした違いをなくすことはできません。
同時に手続きが必要な場合、必要な手続きは同じ形式になっていなくては困ることがしばしばあります。仕事のルールについて考えるとき、仕事の仕方の同一性と各人の違いについて考えざるを得ません。
業務マニュアルがあれば、業務プロセスが定まり、判断基準も示せるので、仕事を各人に任せることができる…とも言えます。標準的な枠組みの決定によって、かえって個性が発揮できる面もあるでしょう。この点、もっと積極的な意味があるのかもしれません。
2 一義性のない認識
個性の問題について、内田義彦が『読書と社会科学』で、<個性的な認識と正確であることは矛盾するか>という問題提起をしています。人文や社会科学系の学問成果を評価する場合、自然科学のように、<誰が見ても同じ判断をひき出せる>わけではありません。
<事実について出たらめの報告をすれば、各方面の専門家がそろっておりますから、すぐに馬脚があらわれる。間違いを正されます>。ただ、<一義性をもった理解だけを正確とする正確概念からすると、曖昧で頼りにならん面が、たしかにあります>。
しかし、一義性のない<この種の認識は、不正確で頼りがないかというと、そうではない>ということになります。ビジネス上の判断でも、同じでしょう。ある種の基準、ルールがあったとしても、一義的に物事を判断したり、評価することは危険です。
3 共通理解では不十分
個性的な認識をすることと、それが正確であることは矛盾しないという内田の考えはどんなものなのでしょうか。内田は、森有正が演奏について語った話をもとに、正確に弾くとはどういうことかを問います。
まず技術不足や恣意的であることは論外です。これは個性的ではありません。一流の演奏家は、<精密に楽譜を調べ、徹底して楽譜に忠実であった>からこそ、<演奏は、それぞれ個性的である>と言えます。「共通理解」などというものを相手にしていません。
<誰がひいても同じ演奏になるような、そういう最大公約数的な、底の浅い平板な理解では、とても正確な理解などとはいえない>ということになります。世間一般の通念をより深めていくと、各人各様の捉えかたにならざるをえないということです。
正確な認識をするには、読み深めることが必須です。それを行うと次第に個性的になっていく面があります。だからこそ内田は、最大公約数的な一致を狙いにする傾向に警告を発しています。これはそのまま、ビジネスにも当てはまることだろうと思います。