■思考の道具としての言語を鍛える:『日本語の21世紀のために』を参考に

 

1 伝達の手段、思考の道具

言語は伝達の手段です。同時に思考の道具です。しかし日本語は、思考の道具として十分な活用がなされてこなかったと、対談集『日本語の21世紀のために』で山崎正和は語っています。日本が急速に工業化社会を作ろうとしたために起こったことだというのです。

工業化社会では、<伝達された知識を理解して、その通りに実行する人間がたくさん必要であった。考える人間は必要でなかった>ということでした。<機械は根本的に、普遍的なものであることを目指しています>から、理解して使えることが優先されます。

<マニュアルをきちっと理解して機械が動かせる人間が必要だった>のです。そのため、<どこへ行っても同じである共通語と、その書き言葉を普及させるという必要>がありました。後追いの工業化の段階では、これでよかったのでしょう。

 

2 日本語の環境変化

もはや後追いの工業化の段階ではありません。業務自体が複雑化し、機械もシステムも均一な利用のされ方では対応できなくなってきました。当事者が考えることが必須の要素となっています。思考の道具としての言語が重要になってきたのです。

すでに日本語の環境自体が、ずいぶん変わってきています。例えば、<仮名の楷書はおそらく明治になって一般に普遍化したもの>であり、<それ以前の仮名はすべて草書か行書>だったそうです。今では自分の文章を活字で示すことが普通になりました。

<私個人の経験に即して言いますと、思考の速度と書く速度が一致したのはワープロが出てきてからなんです>。ペン書きでは、<思考速度に追いつかない>状態でした。デジタル化により、読み書きのスピードが上がりました。この点、注目されるべきでしょう。

 

3 記述する能力が重要

日本語の論理化が進んできた点も重要です。しばしば指摘されるように、外国語との接触によって、日本語の論理化が進展してきました。すでに論理的に書ける形式が整っています。こういう中で、思考の道具としての言語をどう使っていけばよいのでしょうか。

何となく、自由に感想を書いたり意見を主張することによって思考が鍛えられるという誤解もあるようです。しかし、主観的な印象を書いても思考の訓練にはなりません。大切なことは物事を記述できるようにすることだ、と山崎は主張しています。

生物学や地学といった学問は、物事を記述しなきゃいけないんですね。文科系の学問もほとんどすべてそうです。考古学で遺物や遺跡を写真に撮っても、それだけでは何の意味もない。「ほらほら」と指で指しても、現象は存在することにならない。それがどういう形であるか、言葉による記述があってはじめて事実は存在することになって、論争が始まるんですね。ですから、全ての学問の基礎になり、社会生活の基礎になるのは記述なんですね。

言われた通りの作業ができるだけでは、付加価値を生み出しません。自分達で考えて、工夫やノウハウを記述することが必要です。記述する能力が背景になくては、思考自体が成立しません。簡潔・的確に記述できる基本能力を鍛える必要があるといえそうです。

 

4 付記:実際の問題例

記述の能力というのはどういうものなのか、実際にどうやって身につけていったらよいのか、その参考になりそうな事例が示されています。付記します。山崎正和が作った大阪大学の入試用の作文問題です。記述力の基礎訓練がどんなものか、わかると思います。

私は一枚のごく平凡な写真を印刷しまして、その場面を見たとおりに記述せよという問題を出しました。写真というのは、踏み切りがあって、遮断機が降りていて中年の男と自転車の子供が待っている、その前を電車がかなりのスピードで通過しているという場面です。

対談相手の丸谷才一も同じように具体的な問題を示しています。<僕が入学試験の日本語作文の出題者だったらどんな問題を出すか、という話を座談会の席でしたんです>…ということです。これも記述の問題です。

十センチ四方の五万分の一の地図を出して、この地形を四百字で記せ。そうすると、北のほうに海があって、東に岬があって、西のところに小さな島があって、それから南のほうの半分は平野になっていて、というようなことを四百字で書けばいいわけですよ。そういう基本的な能力が、今の日本語で一番欠けていることですね。

 

 

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