■ビジネス文が基礎にする日本語の形式

▼ビジネス文は翻訳可能であることが原則

ビジネス文を書くときに、気をつけなくてはいけないことは、翻訳可能な文で書くということです。ビジネス文の書き方を論じるとき、主に内容が問題になります。しかし、同時に、その表現の仕方、文の書き方が大きな問題になります。

日本語を英語に翻訳して、その後、日本語に翻訳すると、ずいぶん違った日本語になってしまうことがあります。こうした違いの小さいことが、ビジネス文の条件になります。翻訳可能な文章とは、繰り返し翻訳しても、あまり変化しない文章を言います。

グローバルな視点から、社内言語を英語にする企業がいくつか出てきています。しかし、おそらくこれは少数にとどまることと思います。主要企業では、日本語を使い続けるでしょう。そのとき、ビジネス文の書き方をもう一度本気で考えることになると思います。

『比較日本語論』で柳父章は、≪日本文には、もともとヨーロッパ文の、sentence に対応するような単位はなかったのだ、と私は考える≫ 、≪明治以後、欧米の文の翻訳の過程で作り出されたのである≫ と書いています。おそらく、その通りなのでしょう。

ビジネス文を書くときに使っている文章形式は、そんなに歴史はありません。苦労して作り上げてきたものです。まだ十分に確立されていません。本気でビジネス文に取り組まなくてはいけない時代になったと思います。

▼英文法をくぐってきた日本語

西堀栄三郎が、論文は書けても、一般向けの日本語が書けなくて困っていたとき、友人の桑原武夫が、週刊誌を読むように言ったそうです。それがきっかけで、名著『南極越冬記』が生まれました。

このエピソードを紹介した司馬遼太郎は、昭和30年代の週刊誌の文章は今と違って、折り目正しかったと指摘して、今の週刊誌ではだめだと、週刊誌の編集者に釘を指したそうです。では、当時の週刊誌の文章とは、どんな特質があったのでしょうか。

渡部昇一が『レトリックの時代』で書いていることは、その参考になるかもしれません。英語を「直訳」しながら、何とか通じる日本語を書いてきたことを評価して言います。

(「直訳」という)奇妙な日本語を「書く」ことによって、日本のインテリは最も集中的な日本語作文の訓練をしたのであった。そうして育ったインテリの日本語が、現代の日本の「標準的書き言葉」を形成しているのである。

その代表例として、「新聞の論説」の文章をあげて、≪これを私は「英文法をくぐってきた日本語」と呼ぶ≫と記しています。今の週刊誌の場合、口語文が優位になっていて、様子が違うかもしれません。「標準的書き言葉」とは、柳父章が書くとおりでしょう。

「文」には、主語と述語とがある。(中略)日本「文」では、述語が終わりにくる。従って、主語で始まり、述語でもって「文」を終えなければならない。

当たり前のようですが、口語では、主語(主体)の不明確な場合が多くあります。梅棹忠夫が、文を書く側で、主語を立てなくてはならないと主張したのも、同じ趣旨でしょう。

▼ビジネス文の中核となる主述関係

翻訳可能な日本語を書くには、書き方のルールが必要です。そのとき一番大切なのは、文の主役を明確にするということになります。記述しようが、記述しまいが、主役=主体が明確であることが必要です。

主体になるための条件は、主体が述語(述部)と対応関係を持つことに尽きます。ビジネス文を書く場合、主述関係を明確にすることが原則です。これが論理関係の基礎になります。主要なところ、明確にできるところは、主述関係を明確に示すべしということです。

現行の日本語文法は、こうした前提に立っていません。補語や目的語という英文法の概念をそのまま日本語に当てはめることも、無理があります。あくまでも、「英文法をくぐってきた日本語」の主体は、日本語のビジネス文ですから。

ビジネス文で求められるのは、翻訳可能な文ということになります。何人かの方から、そういう意識を持ったら、文章が少し変わったとのお話もいただきました。まずは、意識をもつことが必要なのかもしれません。