■庶民の歴史がはじまった江戸時代:大石慎三郎『江戸時代』から

     

1 50年ほど前に書かれた『江戸時代』

大石慎三郎の『江戸時代』は1977年に出されています。出版が50年近く前ですから、その後、研究はかなり進んでいるはずです。もはや古くなったと言われるかもしれません。しかし、久しぶりに読んでみましたが、よくできた入門書だと思いました。

江戸時代は、ある時点から、現代に直接的につながっていると感じさせる時代です。それを感じ取るのには、教科書や参考書などの概説書は向いていません。この本の場合、客観的かつ網羅的な概説書はめざしていないと、大石は「はじめに」に記していました。

[私は本書をかなり自由に組み立ててみた]と言い、2つのことを「はじめに」で指摘します。第一は、江戸時代が[本当の意味で庶民の歴史がはじまった時代]であること、第二は、[約二五〇年余りものあいだ、内外ともに戦争をしていないということ]です。

     

2 下水道の建設がなされなかった理由

「Ⅳ 江戸の成立と発展」で、[多くの近世都市が立派な上水道をもっていたのに][下水道を建設しようという試みはなされていない。どうしたわけであろうか](p.134)と問題提起します。下水道がなければ、水が汚染されるはずですが、そうなっていません。

[屎尿処理のための下水道は江戸をはじめとしてどの城下町も持っていない](p.134)のですが、それらをすべて蓄えて、下肥にしていました。[下肥が一番大量につくられるのは都市]ですから、武家など[一定の代価を受取って汲取りをさせた]のです(p.135)。

[田畑で連続的に農業を営むためには、どうしても消耗した地力を人工的に補ってやる手だて]が必要です(p.134)。欧州の三圃農法のように休耕させる方法ではなく、下肥をつくって肥料として利用したのでした。17世紀半ばには、この体制は整ったようです。

    

3 和服文化と光琳を生んだ「衣装狂い」

「Ⅴ 絹と黄金」では、二代将軍秀忠の末娘の和子を、後水尾天皇に入内させた経緯が記されています。天皇は、入内より先に別の局を寵愛して皇女を生ませていますし、一方の徳川側も、外戚の地位を得ようという思惑があります。これではうまくいきません。

後水尾天皇は、寛永6(1629)年に退位します。次の明正(メイショウ)天皇は、和子との間の皇女でした。これで徳川側にとっては、後水尾天皇も東福門院和子も、いわば「御用済み」になったのです。天皇退位後の東福門院は、その後50年間、「衣装狂い」となります。

[狂気のような着物の新調にあけくれた一生](p.152)です。和子は[衣装制作技術の最大の育成者]と言える存在でした。「雁金屋という御用呉服店」に何億もの衣装をつくらせています(p.153)。そして、雁金屋当主の次男が尾形光琳、その弟が乾山でした。

結局、[世界で最も美しいと賞讃される日本女性の和服文化の成立と、元禄文化を、さらに日本文化を代表する尾形光琳・乾山を生みだした](p.154)のです。最新の研究は概説書にあたればよいでしょう。大石の『江戸時代』は、まだ読む価値を失っていません。