■天才的な学者・内藤湖南:宮崎市定の「独創的なシナ学者内藤湖南博士」から
1 天才的な学者・内藤湖南
宮崎市定の先生だった内藤湖南は、天才的だといわれる学者です。宮崎は、1960年に「独創的なシナ学者内藤湖南博士」を書いています。中公文庫『中国に学ぶ』に所収されました。巻末に、この文章はユネスコ編「日本の哲学者」(英文)のために執筆とあります。
内藤湖南の本名は虎次郎、1866年生まれ、1934年没でした。『日本文化史研究』と『先哲の学問』が代表的な著作であり、ともに講演録です。湖南は[なるべく僅少の資料を用いて断定し、思考の最短距離をとって結論に到達する](p.298)のを理想としました。
多くの資料を集めた上で、[一番有効な資料を一つ使えばそれで十分だと考えた](p.299)のです。湖南が特別の価値を見出したのは、富永仲基の「加上の原則」でした。これを[中国古代史の研究に応用して成功している](p.289)と、宮崎は評価します。
2 富永仲基の「加上の原則」
加上の原則とは、ある考えが成立すると、次はこれを超えようとして新規のものを加える、加上が多いほど新しいという考えです。中国古代史の歴史で、[もっとも古い時代におかれる帝王ほど、それが歴史事実に仕立て上げられた時代は新しい](p.291)のでした。
『書経』の成立を見ても、[孔子の当時は、周公の事跡を中心とした諸篇に過ぎなかった]ものが、加上により[堯・舜から始まり、夏・殷・周の三代の記録を含む現行の形をとるようになった](p.292)とみなされます。これは日本の古代史でも同様でしょう。
湖南は[日本の古代史についても注意すべき示唆を行ってい]ました。宮崎が[談話などで聞いて理解したところ]を記しています(p.293)。[はなはだ巧みな論理である]が、[惜しいことに日本における国史研究家は][十分な関心を有してい]ません(p.295)。
3 神武東征説が生まれた経緯
『古事記』や『日本書紀』に[最初に出てくる地名は、当時としては辺鄙な地方ばかり]であり(p.293)、日向、出雲、信濃、常陸などは[ほぼ当時の国境線]です。しかし[大和朝廷は近畿に起こり、近畿を舞台として勢力を固めたもの]でした(p.294)。
したがって[もっとも古い史実は近畿の地名と関係していたに違いない]のです。長髄彦
(ナガスネヒコ)との闘争が最も古く、次に出雲政権と衝突し征服した話となり、大国主命の説話が輸入されます。それが[長髄彦の前、神代の部におかれ]ているのです(p.294)。
信濃が勢力下に入ると、そこの伝説が輸入され、常陸が征服されると、その地の伝説が[神代の歴史とされ]ました。[大和朝廷の勢力はさらに遠くまで伸びて九州の南端に至るが、そこで日向の国の伝説である天孫降臨説話が大和へ輸入され]たのです(p.294)。
つまり[最も新しく知られた説話である必然の結果として、最も古い時代に置かれなければならなかった]。これを大和朝廷の歴史と結合させるために、[神武天皇は近畿の土着でなく日向国より東征したことに]なりました(p.294)。卓見というべきでしょう。
