■共通認識を欠落させる効果:日本語センテンスの機能論
1 記述しないほうが原則
日本語の文章を書くときに、私たちは知らないうちに、わかりきったことをカットしています。たとえば、「私は・私が」というのを、あえて書く必要があるというのでなければ、記述しません。これは記述しないほうが原則だということです。
主体となる「私は・私が」ならば、これを欠落させることが自然ですが、一部欠落ということもあります。違和感なく、自然に使っている言い方でも、意識して確認してみると、言葉の一部が欠落していることに気づくことがあるはずです。
「あのお寿司屋さんはおいしい」と書けば、間違いなく伝わります。「お寿司屋さん」自体は食べ物ではありませんから、食べておいしいわけじゃないですが、かえって、「あのお寿司屋さんのお寿司はおいしい」と言うと、ややくどい感じがします。
2 要素を欠落させてシンプル化
日本語の場合、わかりきった要素を欠落させることによって、センテンスを効率化、シンプル化して、必要事項が伝わるようにする原則があります。こうした言葉の一部欠落は、主体だけで起こるのではなくて、主体以外でも、わかりきった部分を欠落させるのです。
「漱石を読む」と言ったら、「読む」対象は「漱石」ではなくて、「夏目漱石の作品」に違いありません。漱石と言えば、作家の漱石だと分かりますから、読むのは漱石の作品です。わかるだろうという認識がある場合、あえて「漱石の作品を読む」とは言いません。
文末も同じです。「コンニャクは太らない」と言えば伝わりますから、あえて「コンニャクは太らない食品だ」とは言いません。コンニャクは、「食品だ・食べ物だ」と言うまでもない共通認識になっていますから、あえて記述すると、かえってうるさくなります。
3 欠落による明確化
こうした共通認識を欠落させることは、文の機能を効率化することになるでしょう。しかしただの効率化でなくて、もっと積極的な意味もありそうです。「後に私がこの件にかかわった理由を尋ねると母は気まぐれよと言った」という文章の場合、どうでしょうか?
「私が」があると、「私がこの件にかかわった」ように読みかねません。しかし、「私が…尋ねる」のですから、「この件にかかわった」のは「母」です。かえって「後にこの件にかかわった理由を尋ねると、母は気まぐれよと言った」のほうが解りやすいでしょう。
「尋ねると」の主体が記述されていない場合、主体は「私」だと分かります。こういう原則がありますから、記述しないほうが、正確に伝わるのです。センテンス前半の主体者は「私」、尋ねた相手は「母」ですから、「母に尋ねると」の「母に」が欠落しています。
これは「私が母に理由を尋ねた」、すると「母は気まぐれよと言った」という二つの文意が合成された形です。「私」を欠落させ、「母」の重複を解消させたために、伝わりやすい文になりました。ある条件下で欠落を原則とするのは、明確化のためでもあります。
