■日本語への信頼と日本語の確立:外山滋比古『日本語の個性』
1 かつての日本語不信
外山滋比古の『日本語の個性』のはじめに、江崎玲於奈博士の話がでてきます。ノーベル賞受賞記念の英語原稿を日本語に直そうとして苦労したそうです。これは日本語のせいだという結論に達したとのこと。何だか読んだ気がします。以下のような話です。
▼『創造性への対話』という本の中にあるのだが、日本語は哲学や科学的思想を表現する手段として不適当ではないかと割り切っている。したがって、大学などで科学をやる学生の教科書は英語のものを使うのがよろしい、ともいう。日本語不信である。 p.6
かつては、こうした話を聞くことがよくありました。英語と日本語の違いがある場合に、日本語の問題だという発想です。これがおかしいとも言い切れないところがあります。江崎博士のノーベル賞受賞は1973年でした。まだ日本語の側にも問題があったはずです。
2 別々の論理と共通の論理
外山は、江崎博士のような発想を「日本語不信」と言い、日本語の問題だとは言いません。代わりに、英語と日本語は、[別々の論理をもっているわけだが、外国語の優秀性を信じる社会では論理の多様性などを承認するはずがない](p.7)という言い方をします。
たしかに、別々の論理もあるかもしれません。しかし英語と日本語で、論理性が問われるときに、つねに別々の論理が働くわけではなくて、共通の論理思考が広くあるはずです。そうでなかったら、哲学や科学の教科書が日本語で十分通用するようにはなりません。
問題は、簡潔で的確な表現になっているかどうかということです。日本語の側にも問題があったというのは、こういう点です。もっと明確な表現ができたはずですが、まだ1970年代では、十分ではなかった気がします。日本語がグローバル化する必要がありました。
3 明晰な文章が歓迎される時代
トヨタ自動車が北米進出をして、ケンタッキー工場を稼働させたのが、1987年でした。このあたりから、日本語でもグローバルな発想や内容を表現する努力が本格化したようです。外山の『日本語の個性』は1976年の本でした。先を読んでいた気がします。
▼わかりやすい表現が好まれるのは当たり前のように考える人があるかもしれないが、必ずしもそうではない。だいたい新しくものを読む人間が急に増えると明晰な文章が歓迎される。明快な表現を喜ぶのはいくらか素朴な読者だからである。相手への配慮が細かくなるにつれて言い方はあいまいになるもののようである。 p.13
インターネットの普及が後押しして、現在、明らかにわかりやすい表現が好まれるようになっています。「新しくものを読む人間」「いくらか素朴な読者」という言い方で、読解力の弱めな人が急増すると、表現側が明晰を心掛けるようになると指摘したのです。
知識の専門家が進み、盛り込む内容もグローバル化が不可欠となったのは、1980年代後半からでしょう。明晰な表現が求められ、さらにネットの影響で文章が広く読み書きされるようになって、21世紀初めには、日本語の安定的な表現が確立したものと思われます。
