■日本語における主題:「言うまでもない共通認識」

     

1 共通認識は記述しない

日本語の場合、会話になると極端に言葉数が減ることがあります。「あれどうした」だけで通じても驚かないでしょう。「お茶」というだけで伝わらなかったら怒る人もいるかもしれません。文章にする場合、もう少し記述する言葉数が増えます。

しかし、それでもあえて記述する必要のない言葉は、排除されるのが原則です。「あのお寿司屋さんはおいしかった」の方が、「あのお寿司屋さんのお寿司はおいしかった」と言うよりも自然でしょう。「漱石の作品を読む」より「漱石を読む」がしっくりきます。

あるいは「オレきょう行ってきたよ」ならば、その前にどこに行ったのかがわかっているという前提です。言わないことは共通認識なのですから、これが伝わらなかったら、お前とは話ができない…となります。大切なことは言わなくてもわからなくてはなりません。

      

2 主題も共通認識なら記述しない

同じ趣味の人がいて、新しくできた店を見つけたとき、すごいものが置いてあったよ、気がついたかいと言う…こんな場面があれば、相手方も、そうそう、びっくりしたよ、あれは欲しいよなあ、もう一度見に行ってこないとなあ…と応じることも考えられます。

このとき、「オレは今日買ってきたよ」と言ったなら、「あのすごいもの」が共通認識です。「あのすごいもの」に関して言っています。これが主題です。「オレは今日行ってきたよ」ならば、「あの店」が共通の話題であり、主題は「あの店」になります。

少なくとも、われわれの認識では、主題は「あのすごいもの」だったり、「あの店」になるのです。これがわからないと、話が通じません。日本語の文法の通説だと、主題は「オレは」なのでしょう。助詞「は」がついていますから。妙な考え方をするものです。

     

3 「は」がつけば主題という説明

書かなくても十分伝わること、分かり合えるという共通認識があるから、記述しません。記述しないのは、重要でないからではなくて、言うまでもない共通認識だからです。日本語の場合、「言うまでもない共通認識」は記述しないという原則があります。

記述しないことが原則になるのは、「言うまでもない共通認識」が前提になるからです。当然ながら、主題のみならず、主体(主語)も同じ扱いになります。ともに、記述したほうがよい場面では記述するということです。これらは共通認識との関係で決まります。

したがって、記述するしないと、主題や主体の機能の話は別のことです。主体を記述しないからと言って、主体がわからないわけではありません。わかるから記述しないのです。もし共通認識になっていないのなら、記述しなくてはいけません。それが原則です。

主体でも主題でも同じことになります。しかし主体(主語)と比較して、主題という概念はなじみの薄い存在です。日本語の文法の本を見ても、明確な定義があるとは言えません。その結果、「は」がつけば主題という、おかしな説明が現在でもなされています。