■「文章語にして語れ」:司馬遼太郎「何よりも国語」から
1 「文章語にして語れ」
明確な考えを持つには、明確な考えであるか否かを確認する必要があります。検証しながら、自分の考えを明確にしていくということです。明確、あるいは明晰という言い方にふさわしいのは、誰が読んでも、その内容がすっきりしているということになります。
当たり前すぎる話です。このことを司馬遼太郎は「何よりも国語」(『司馬遼太郎が考えたこと 14』)で、それは国語力であると書いています。そして、[国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである](p.57)ということです。
[ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、人の話もきけず、何を言っているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い](p.57)と書いています。聞き取りの基礎にも、文章を書く能力があるということです。
2 現状を言語化できるか
日本語の訓練をしておかないと、自分で勉強するときにも不自由することになります。読めないと書けませんから、読み書きは一体のことです。生活するのに不可欠な言葉だけでは、人間の精神は飛躍しません。司馬遼太郎は、そのことをこんな風に書きます。
▼言語によって感動することもなく、言語によって叡智を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的昂揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。 p.57
これは子供の頃からの継続した訓練が必要です。司馬は、[自分の現状を、ちゃんと言語化できるように、子供をしつけてやらねばならない](p.58)と書いていました。これは基盤の話です。基盤ができたら、その上に、さらに自分で訓練をしていく必要があります。
3 訓練法のレベルアップが必要
社会人になってからも、訓練がいらなくなるわけではありません。逆に飛躍するために、ますます読み書きが重要になってきます。ものごとを客観視するためには、いわゆる「見える化」が不可欠といえるでしょう。これができないと困ったことになります。
組織で仕事をスタートする場合、初めて仕事をする人に、業務内容を明確に示さなくてはなりません。組織側で仕事内容を明確な形にする、つまりは業務を標準化して、適切に記述することが必要です。仕事をする側も、記述内容が読めることが前提になります。
しかし実際には、こうした標準化がなされていないケースが多いでしょう。記述の訓練が不十分なのです。書こうとするからこそ、自分の実力の足らない部分が見えてきます。そのための訓練をすれば、マネジメントの領域にまで良い影響が出てくるはずです。
読み書きの訓練を、社会人になってから、ほとんどしていない人たちが多数います。高度な仕事では、読み書きの高い水準が要求されるのに、一部ではレベル低下が顕著です。訓練が必要であるという意識と、効率的な訓練法が必要であるとの認識が必要になります。
