■FSP(文の現実分析)の解説と日本語の例文:千野栄一の説明のズレ
1 優れた言語学者 千野栄一
千野栄一は優れた言語学者だったと思います。専門家でないものが評価するのはどうかと思いますが、一般向けに書かれた本からは、すぐれた学者の資質がうかがえました。学ぶ側ですから、素直に、その言うところを読みたいという気持ちがあります。
しかし、なぜか日本語に関することになると、しばしばズレているのではないかと感じてきました。マテジウスの理論の説明など、千野の『ことばの樹海』がなかったら、まず、わからなかったろうと感じますが、そこから日本語への言及がある場合、困惑します。
マテジウスのFSP(functional sentence perspective)といわれる理論では、従来の文法分析とは別の、文脈から見た「文の現実分析」が可能だとのこと。そこまではわかりますが、日本語の話になると、千野の説明には、物足りなさやズレを感じるのです。
2 FSPと日本語についての解説
FSPという言い方をしなくても、「主題と叙述」を取り入れた日本語文法がありますので、何となくわかるかもしれません。千野は日本語には[FSPを表すための形態標識があり、助詞ハはこれである](p.236)といいます。具体的な例文を出してのことです。
▼手紙ハ読んだ、手紙ハある、の二つの文でハは前者は目的格、後者は主語を示すかのように見えるが、両者とも主題を示しているにすぎない。手紙のハよくない、手紙にハ書けない、手紙でハ駄目だのように、いろいろな格関係が主題になり得る p.236
「手紙ハ読んだ」ならば、「私は手紙を読んだ」という意味だと分かります。では[手紙のハよくない、手紙にハ書けない、手紙でハ駄目だ]はどうでしょうか? すべてハは主体を表しています。文末の「よくない・書けない・駄目だ」の主体になっているのです。
3 日本語例文における千野の説明
よくないのは「手紙の何か」ですし、書けないのは「手紙に書く何か」、駄目だといのは「手紙でする何か」でしょう。例えば、「手紙の(文字)はよくない」「手紙に(個人的感想)は書けない」「手紙で(連絡するの)は駄目だ」という風になります。
これは別の例を見ると、さらにはっきりするはずです。「あのお寿司屋さんはおいしい」の場合、「あのお寿司屋さん(のお寿司)はおいしい」となります。わかっていることは、書かないほうが簡潔だという意識があるからこそ、あえて記述しないということです。
日本語のように「体言複合体」や「用言複合体」というべき語のつながり方をする言語の場合、「あのお寿司屋さんのお寿司」といった言い方が多すぎると、煩わしくなります。文末を見れば、なんのことかわかりますから、あえて書く必要はないでしょう。
一方、「手紙には切手が同封されていた」「手紙では申し込みができない」ならば、「手紙に切手が同封されていた」「手紙で申し込みができない」という文の「手紙」を強調した形です。千野の説明では、正確な文章の読み取りができるようになる気がしません。