■戦前にフランスに留学した画家たち:荻須高徳『私のパリ、パリの私』から
1 朝から晩まで終日を絵に専念
戦前のフランスに留学した画家たちは、どんなだったのだろうかと思って、荻須高徳の『私のパリ、パリの私』を手にとりました。もうずいぶん前に読んでいますが、画家がどんな勉強をしたのか、意外にも忘れています。とくに若い時の勉強が気になりました。
荻須はハイカラ好きの叔父さんのおかげで美大への道が見えてきました。東京に出て、川端画学校に入ります。当時の試験が素描(デッサン)のみだったとのこと。木炭など見たことないので、[二、三週間あわてて木炭を習いました]が、その年は落ちてしまいます。
翌年、画学校では[朝から晩まで終日を絵に専念](p.40)しました。[いつの間にか、石膏像を描くことそれ自体が得意になってきました]から、芸大に[楽々と入学]します(p.42)。美大は[なんとのんきで、おおようで、ぜいたくな]と思ったそうです(p.43)。
2 のんきな、なまぬるい空気のなか
西洋画科の同級生は、猪熊源一郎とか、小磯良平、牛島憲之、山口長男といった人たちでした。皆、[画架にかじりついてくそ勉強をやっている]ので、こんなので良いのかと相談した人が、藤島武二教授に[「それでいいんじゃ!」と一喝され]たとのこと(p.44)。
その中で荻須は[「模範青年団長」のあだ名をもらい]ますが、[のんきな、なまぬるい空気のなかで、いつの間にか過ぎ去ってしまった]という印象です(p.44)。よほど荻須は若い時に勉強したのでしょう。卒業後、叔父さんのおかげでフランス留学が決まります。
佐伯祐三は、自分もフランスに行くからパリで会おうと、力づけてくれました。[佐伯さんは川端画学校でも僕の先輩で、石膏デッサンの一番うまい人でした]とあります(p.46)。フランスで佐伯と合流し、その様子を見ながら、荻須のパリ時代が始まりました。
3 きびしさ、はげしさ、図太い大胆さを尊重
佐伯は[毎朝早くから起きいでて、それこそ、しゃにむに街に画架を立てて描いているという印象](p.54)です。[あまさ、なまやさしさをしりぞけ、きびしさ、はげしさ、図太い大胆さを尊重する画風]でした(p.61)。佐伯はフランスで大きく変わったのです。
▼ブラマンクと親しかった里見勝蔵は、佐伯祐三をブラマンクのところへつれていって紹介しました。佐伯さんはそのときにブラマンクの語った「歩ける地面を描け」ということばのはげしさに刺激されて、フォービスムを自分の行くべき道として選びとるに至ったのです。 p.61
1920年代当時、[フォービスムの運動そのものはフランスではすでに下火になっていました]が、彼らにとってそれは[アカデミックな美術教育に対する反逆の気分]を表すものでした(p.61)。荻須も刺激されて[一日一日を大切にすること](p.60)を守っています。
[当時のパリ生活で、仕事本位で勉強した人びとは、その後、それぞれの成果を上げて日本美術界に活躍した](p.60)のです。そうではない人が多数派だったでしょう。当然ながら、後世まで残るものを創造した人は、必死でやることをやっていたということです。