■文献学的方法と考古学的方法の限界について:宮崎市定『謎の七支刀』
1 七支刀についてのNHKの報道
NHKオンラインで、石上(イソノカミ)神宮の七支刀の再調査がなされているとの報道がありました。この刀は『日本書紀』にも記載されており、その記載された七支刀が現存しているということですから、奇跡のようなお話です。その銘文が今回も問題になっています。
百済王から日本の倭王へ送られたのは、何年のことなのか、この成立年代が従来から注目されてきました。今回、X線CTを使った調査で、浮かび上がってきた画像をもとに、「泰和四年」、西暦で言うと369年であることが、ほぼ確定したとの報道です。
この件、日本史の専門家が関わっていることですから、NHKの報道は、その人たちの考えに従っているでしょう。しかし、どうも「泰和四年」という年代は、ありえないことのように思えます。宮崎市定が『謎の七支刀』ですでに論じつくしている問題です。
2 泰和四年か、泰始四年か
該当する時期に、「泰和」という年号がないため、「太和」のことだろうという「泰和=太和」とみなす見解に基づいています。この強引な読み替えには無理があるのです。しかし、本来なら否定されるべき見解も、現在は多数決によって通説になっています。
七支刀が東晋の時代という前提にたち、晋の時代の「泰和」しか該当する年号はないと、NHKは報道していました。最初に七支刀を鑑定した菅政友は「泰始」と読んで、西晋泰始四年=268年であると主張したのですが、宮崎は宋の泰始四年=468年としています。
今回の報道で浮かび上がった画像を見ても、すでに宮崎が『謎の七支刀』で示した「始」と解釈した点を否定するものではありません。報道を見る限り、宮崎の見解に反する新たな証拠は出てきていない様子です。どうも、今回の報道は、妙な感じがしました。
3 文献学的方法の必要性
東晋の軍閥・桓温が前燕を討伐して大敗したのが369年であり、[東亜の外交情勢は当時まだまだ未成熟であって、東晋朝廷によって手のこんだ芝居が百済、倭国をも巻き込んで演ぜられるなどは、到底考えられ]ない状態(全集21 p.162)だと宮崎は記しています。
銘文の読みについて、今後また報道があるかもしれません。今回の調査が[一字一字にとらわれ過ぎて、全体としての考察がたりなかった]という「考古学的方法」(全集21 p.45)だけにならずに、全体を見る「文献学的方法」が加味されることを願っています。
▼私の七支刀解釈は理論的にも、また当時の歴史的環境にもぴたりと合致する、すぐれた新説だと自負するのだが、どうもそれがすんなりと日本の学界に受け入れられそうもないこともまた自覚している。 全集21 自跋 p.433
宮崎の七支刀の研究によって、この問題の大筋は決着したと、私は感じていました。宮崎自身が、[私は内心自分の新見解に過大な自信を抱き、甚だ得意であった](文庫版あとがき・全集21 p.184)のも当然のことでした。ある種の、興味深い報道といえます。
*現在、「NHK 七支刀」で検索すると、≪国宝「七支刀」“空白の4世紀”の謎に迫る最新の調査とは≫(2025/06/06)があります。