■高度な内容を語るときの工夫:内田義彦『社会認識の歩み』から

     

1 高度な講義が成立した時代

内田義彦の『社会認識の歩み』は、1971年に出されています。岩波市民講座で講義をして、それに加筆して本にまとめたものだそうです。ずいぶんレベルの高い講義が成立したものだと思います。あの頃の日本人には、旺盛な知識欲があったのでしょう。

いまだに読む気になれば、このときの講義の内容がどんなだったのかわかるのですから、本というものは、貴重な存在です。その上、この本を少し読むだけで気がつくことですが、やはりレベルの高い内容を、読む気にさせるようにと、上手に作られています。

先日講義をしたばかりで、何だか申し訳ない気がしていた時に、書き込みや、印のついたこの本を手に取ってみると、文章の力を感じてきました。話したことは、そのままでは消えてしまいます。私のテキストなど、骨ばかりで、肉付きがあまりよくありません。

      

2 賭けるには客観的な認識が必要

自分の講義を文章にして残したら、どんなものになるのかと、しばし反省しています。内田の本では、第Ⅱ部1章が「運命へのチャレンジ」という章題でした。[決断、賭けということがあって、はじめて事物を意識的かつ正確に認識する]とあります(p.44)。

つまりは[事物を客観的に認識していくためには、断片をどう処理していけばいいか]という[社会科学的認識の方法]の基礎が問題になるのです(p.44)。例えば競馬新聞を読んだりして、全体でなく断片を知るからこそ、自分なりの認識で賭けることができます。

賭ける場合、主観をなるべく排して[未来を予見しうる形で過去の諸事実の意味を読み取らなければならない](p.46)のです。客観的な認識がないと、賭けには勝てないでしょう。賭けとは[自分が決断をし、自分で責任を取らねばならん]ものです(p.49)。

     

3 運命を知り先手をうつ

[人間いかに生きるべきかを考える]には、[あるがままの人間を、自分を含めて見なければならない]というのが、[マキアヴェリのいっていること]だと、内田は書いています。このとき[人間はつねに運命に包み込まれてい]るという認識が必要です(p.51)。

[偉い人の生涯を見ますと、運命が、あるいは偶然がつねに彼にほほえみかけているように見えます]。運命は[操作すれば変えられる]ので、[運命を操作した結果でもある]のです(p.53)。だから、[運命を逆手にとるのが自由な人間]と言えます(p.55)。

では、どうすればよいのか。マキアヴェリは、[用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている]のです(p.57)。[運命の性格を知り、先手をうてば、運命は読みかえることのできるもの]であり、これは人間の[処世術]でもあります(p.59)。

[どうにもしょうがないと思われるときにでも、実際は、運命の女神がほほ笑んでいるかもしれない。目に見えぬ運命をひっとらえねばならん、と彼は言っている]と、内田はまとめました(p.60)。こうやって社会認識の歩みを語っていくのです。斬新でした。