■漱石の文章における英語の影響:マーク・ピーターセン『英語のこころ』

     

1 『こころ』の文体に見られる英語の影響

近代的な記述用日本語の基礎を作ったのは、おそらく夏目漱石でしょう。夏目漱石は、日本語を近代化する際に、英語を利用したようです。英語の語法で、日本語に導入できるものを上手に取り入れていったと思われます。かつて『三四郎』で確認しました。

マーク・ピーターセンが『英語のこころ』の8章「『こころ』の文体に見られる英語の影響」で、この点に言及しています。英語圏の人の感覚からも、[英語からの影響が大きい文体だ、と強く感じられる](p.104)との証言は貴重です。

▼日本語なら各センテンスで主語を繰り返して述べる必要がないのに、たとえば「私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした」のように、わざわざ主語を繰り返して述べることが多いのが気になる。 p.104

      

2 主語を意識的に記述

日本語に主語がないという説もありますが、別の言語ですから、英語とぴったり同じにはなりません。ただ日本語の場合、文末の主体を記述しないのが通常よく見られることですから、英語の主語とは、かなり違う概念であることは確かです。

漱石の場合、英語の主語を念頭に置いて、意識的に記述したように思われます。「わざわざ主語を繰り返して述べ」ている風です。しかし漱石の場合、主語を意識的に記述するだけではありません。ピーターセンは、「ここ」を繰り返している例をあげています。

「彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(シオ)はゆい身体を清めたり、ここへ帽子や傘を預けたりするのである」の場合、[「英語からの影響」に関する判 断も非常に難しい](p.105)と言う通り、微妙なところです。

    

3 日本語も達者なピーターセンの証言

ピーターセンは、英語からの直訳に見える言葉をあげます。[「私の自信を傷めた」は、どうしても英語の決まった表現であるwounded my confidenceの直訳に見える]、また[rather than~という英語の言い回しを連想]する言い方もあると記します(p.107)。

しかし[日本語の文体に関して、たとえ私が何かを感じたとしても、それについて何かを言いきれるとは思わない。やはり、それは日本語を母語とする人間にしかできないことだ](pp..108-109)と、ずいぶん慎重です。「言いきれる」人はいないでしょう。

「こころ」は1914(大正3)年刊行です。この時代には、まだ近代的な言語ができていませんでした。今からみると、漱石の文章は飛び抜けて近代的だと感じます。どの程度かは別にしても、漱石の文章における英語の影響を否定するのは難しいことです。

英語を母語とする人が「英語からの影響が大きい文体だ、と強く感じられる」と証言してくれたことに意味があります。ピーターセンの場合、特別です。英語を母語としながら、日本人が読んでも違和感のない日本語が書ける人です。貴重な発言だと思います。