■議論の前提となる正確な読み:宮崎市定『論語の新しい読み方』をめぐって

     

1 小倉芳彦の異議申し立て

岩波現代文庫版の宮崎市定の『論語の新しい読み方』には、小倉芳彦の解説がついています。興味深い内容です。『論語』衛霊公篇の「耕也餒在其中矣、学也禄在其中矣」をどう読むかについて、[私が最も眼目と思った]疑問点だとしていました(p.303)。

この部分を、小倉は「(A)耕していても時に飢えることがある。が、(B)学べば必ず禄にありつける。」というのが従来の解釈であったと、まず示しています。この解釈では、(A)と(B)が[不整合だとする宮崎さんの意見に私も同意する]とのこと。

しかし宮崎が[(B)を基準として][(A)の方もこれに揃えて][「餒」は「飢え」の意味ではなく、字を「餧」つまり「飯」に直す]としている点に、小倉は[私はそれには賛同できない]ということでした(以上、p.303)。(A)を基準にすべきだということです。

     

2 宮崎の見解とズレている小倉解説

小倉は、論語の字を直す必要はなく、(B)を[「学んでも意外に禄にありつけることがある」ことを言っている]と解釈すれば、(A)と(B)の不整合が無くなるということでした。当然、小倉は、不整合をなくすために、(A)を基準にすべき根拠を示します。

まず第一に「学んでも意外に禄にありつける」のように、[「学」と「飢」とはそのような不安定な関係として繰り返し説かれている]こと、第二に[「…也在其中矣」という表現は、意外にも逆なことが起こり得ることをいう場合の句法だから]です(p.304)。

どちらが正しいのか、断定はできません。しかし少し気をつけてみると、小倉の論法はかなり危険なことに気がつきます。小倉の説明する「宮崎さんの意見」は、実際の宮崎の解釈とズレているのです。これでは賛同するしない以前のところで問題が生じます。

     

3 宮崎市定の論証

宮崎は、(A)と(B)の不整合を言い、(A)(B)の解釈をする際に[「そのうちにあり」という言葉を論語の中から探し出し]て、4例を検討しています。その結果、従来の解釈である「学べば必ず禄にありつける」とは別の解釈を示しているのです。

▼「その中にあり」というときは、自然にその中からわき出すものである。あるいは、そのことがとりもなおさず求めるところのものである、という意味になる。そして四つに共通して、「そのうちにあり」と言われるものはいいこと、望ましいものであります。 pp..29-30

「自然に湧き出す、あるいは求めるもの、それらは望ましいもの」というのが、「也*在其中矣」の*に来るという解釈です。(A)は「餒(飢)」、(B)は「禄」ですから、(B)は条件にかない、(A)は妙でしょう。だから「餧(飯)」だろうと解釈したのです。

もともと[餧という字には二つの相反する意味があり、一方には食物という意味、他方には飢えるという意味があり][筆記者が間違って、餧の代りに餒と書いた]可能性があります(p.30)。宮崎が小倉に「なんの反応も示されなかった」のは当然でした(p.304)。