■倭の五王の格付けが低かった理由:宮﨑市定『謎の七支刀』の解説
1 日本の格付けの高さ
日本の古代史について、ちょっと面白い視点がありました。明石散人の『アカシックファイル』にある「解き明かされた『倭の五王』」での話です。倭の五王に対する通説がおかしいとの異議だてをしています。五王とは「讃・珍・済・興・武」のことです。
明石は、西暦57年に倭の奴国王が後漢の光武帝から金印をもらい、239年に邪馬台国の卑弥呼が隋から金印をもらっている点を指摘しています。[中国側の日本に対する格付けは極めて高かった](p.42)ということです。それ以降は、以下の経緯をたどります。
▼日本側のプライドが、のちの西暦607年、聖徳太子の隋の煬帝に対する国書『日出づるところの天子、日没するところの天子』で有名な対等外交へと繋がっていくんです。倭の五王は卑弥呼と聖徳太子のちょうど中間の時代にあたるんです p.42 講談社文庫
2 バランスが悪い日本の格付け
日本の格付けについての変化を、明石は指摘して、バランスが悪いと言います。3世紀までの日本の格付けが高かったこと、後の聖徳太子の時代には、形式的にせよ対等外交を主張していたのですから、この時代の日本の格付けも高かったと考えるべきでしょう。
▼これを踏まえて考えれば、倭の五王たちの421年から502年の凡そ八十年間にわたって行われた中国側に対する外交のアプローチも、当然この高いレベルにあって然るべきということになりますよね。 p.42
ところが倭の五王たちは、[高句麗や百済より低い爵号しか与えられていない][安東将軍は最も下位の将軍号でこれより下はありません](pp..42-43)。ここから、[中国の文献に倭王とあるからと言って、すぐ日本の天皇と決め付けるのは変]と主張します。
3 格付け変化の要因
格付けの変化が「高・低・高」となっていて、バランスが悪いので、格付けの低い倭の五王は日本の天皇ではないはずだ、というのが明石の推測でした。明石の結論はナンセンスなものですが、格付けの変化は何らかの事情があったと考えるべきでしょう。
宮﨑市定は『謎の七支刀』で、「倭の五王」の時代は、[江南に国を建てた南朝宋との間に、その前後の時代と比較して、ことに密接な国交を持続したことは、ひじょうに特異な現象である](p.152:宮﨑市定全集21)と記しています。相手先が違ったのです。
卑弥呼の時代、帯方郡を恢復した魏が[倭国に朝貢を催促し、使いを送らせた]のでした。[中国政府は非常に現金で、自分が招いたときには、せいいっぱい優遇する建前である](p.155)。日本の格付けが高かったのは、相手方の事情があったということです。
しかし宋王朝は[百済重視政策]を採ります。五王の時代の日本は、[宋朝廷に日本重視策への切り替えを迫った]のです(p.171)。百済はその後、没落し[それに反比例して、日本勢力の上昇]が起きます(p.175)。格付け変化には、こうした経緯があったのです。