■「は」と「が」をめぐって:日本語文法の改革と再構築
1 「は」と「が」の使い分け
日本語能力の高い留学生でも、「は」と「が」の使い分けには苦労しています。日本語能力が高い人ほど、逆に難しさを感じるようです。留学生だけではありません。優秀な日本人学生の方が、使い分けを知りたがります。しかし日本語文法の説明は使えません。
優秀な留学生の反応は、『ベーシック英語構文文法』で大谷直樹が記すのと、ほぼ同じです。[「は」は主題標識で、「が」は主語の標識だなどともったいぶって言っても、言い換えているだけで、正直、何の説明にもなっていない](p.147)
ということです。
こうした理由から、留学生たちの中でできる人たちが、日本語には文法がないと主張することになります。読み書きの役に立つ文法ではないということです。彼らは外国語として英語を学び、その過程で英文法の本を読んでいます。その比較からの主張です。
2 使い分けから逃げる日本語文法
日本語文法は、日本の知識人からも相手にされていない印象があります。『論文ゼミナール』の佐々木健一も、[文を書いていると、「は」と「が」の使い分けに迷うことが少なくありません](p.170)と書いていました。ここでも、日本語文法を信頼していません。
▼比較されるということは、同種のものだ、ということです。ところが、言語学的な定説は、「が」を主格や属格を表す格助詞と認めつつ、「は」については副助詞(係助詞とする学者もいます)という扱いです。つまり、簡単に言うと、「わたしが~」は主語と認められるが、「わたしは~」は主語ではない、ということです。 pp..170-171
これでは、「は」と「が」は別のものですと言うだけで、使い分けに役立ちません。比較の対象外だとして、使い分けから逃げています。佐々木は[このような文法の議論には立ち入りません](p.171)と書いています。関わるにたる文法がないからです。
3 改善でなく改革が必要
実際に読み書きするときに、「は」なのか「が」なのか迷うのが普通のことなら、その使い分けが示されなくてはなりません。それがなくては使える文法ではないということになります。佐々木はもう少し踏み込んで、日本語文法の問題点を記しています。
▼「私は学生です」という文は、”I am a student”と変わりなく、その「わたしは」を主語と認めない議論に、私は困惑を覚えます(日本語に主語という文法的概念はあてはまらない、という考えなら、「わたしが」も主語ではなくなります)。 p.171
日本語に主語概念を認めないのは、欧米語の主語概念と違いがあるからでしょう。それならば、述語の概念も認められません。現在流通する日本語文法では、「が」は主格補語であり本来の主語ではないが、主語という俗称を使ってもよいと言った風です。
こうした日本語文法が相手にされなくなるのは、当然のことと言えます。もう一度、日本語文法を構成する要素から再定義するしかありません。実際に読み書きをする人たちに、指針を与える文法を作る必要があります。改善ではなく改革が必要だということです。