■秩序づけの原理を考えたい:小西甚一『日本文学史』を読んでの反省
1 文藝の展開を秩序づける表現理念
小西甚一の『日本文学史』は1953年に出版されたものです。30代後半に書かれたものでした。現在は講談社学術文庫版があり、入手も簡単になっています。『日本文藝史』で示された「雅・俗・雅俗」は、まだ「雅・俗・俳諧」という言いかたでした。
▼垣内先生の講義に出てきたフリッツ・シュトリヒ説の「クラシック」と「ロマンティク」からヒントを得たのだけれど、シュトリヒ自身が、この両者だけでは処理しきれない点の存在を認め、何か第三の理念を参加させるべきだろう-と述べている。そこで、第三の理念をかりに「俳諧」と名づけ(後に「雅俗」と改称)、この三次元座法軸で日本文藝の流れを交通整理してみた。 講談社学術文庫 あとがき p.234
小西は文学史を考える場合に、[文藝自身の中に在るもので文藝の展開を秩序づけるひとつの立場として、表現理念による区分を考えてみた](p.15)のです。政治的な時代区分と別の秩序づけが必要でした。文学史に限らず、こうしたアプローチが必要でしょう。
2 吉田秀和の「絶対」と「究極」の区分
吉田秀和はかつて、クラシック音楽を「絶対」と「究極」とに分けて語っていました。「絶対」というのはバッハなどの音楽を言います。オルガンで演奏しようが、それがヴァイオリンになろうが、楽器が変わってもすばらしい曲が絶対的な音楽です。
一方、「究極」の方はモーツァルトなどの音楽を指していました。ピアノの曲なら、ピアノでなくてはこの音楽的な高さは表現できないもの、クラリネットの場合も同じように、この楽器でこそ素晴らしい曲となるのが究極の音楽です。
両者を対比することで見えて来るものがあります。小西の場合、永遠なるものとして「完成」と「無限」を想定して、磨き上げられた完成の極に向かうものを「雅」、無限の極におもむくものを「俗」と呼ぶことにしたのです(p.16)。この区分は見事なものでした。
3 区分の原理を詰める発想
区分の原理を考えるときに、どういう切り口を使うかが問題です。[文藝自身の展開に即して時代を区分しようとする立場]、[叙事詩・抒情詩・物語・劇といった]区分をする立場もあります(p.14)。しかし小西は「表現理念による区分を考えてみた」のでした。
「文藝自身の中に在るもので文藝の展開を秩序づける」にはどうしたらよいかという問題提起に対して、「表現理念による区分」という発想が出てきたのです。「俗」か「不俗」といった二分する原理は「永遠」であり、永遠の表現理念が「完成」と「無限」でした。
私たちも自分が関わっている領域に関して、こうした区分の原理を考えてみる必要があるように思います。シュトリヒは西洋文藝に「古典派」と「ロマン派」という区分原理を考え、吉田秀和は西洋音楽に「絶対」と「究極」という原理を使っていました。
ビジネスの領域でも、何らかの対比で考えることができると思うことがあります。ただ、そのままになってしまいがちです。例えば「プッシュ」と「プル」、「量」と「質」などと思いつきますが、詰めて考えていなかったなあと、小西の本を読んで反省しています。