■主体と文末の呼応:「コンニャクは太らない」の解釈

     

1 思考形式と言語形式

『日本語の歴史 7』で言うように、日本語のセンテンスにおいても、[私たちは、判断をする場合に、かならずある物(主辞)について何かを述べる(述辞)。その思考形式はどこへ行っても変わらない](p.58)と言えます。これは思考形式のお話です。

日本語という言語形式では、[思考のなかにある<主辞>は通常暗黙のうちにすでに理解されているのである。かくて、日本語の要は<述部>にある](p.58)といえます。大切なのは「暗黙のうちに」というときに、思考形式と言語形式がどう作用しているかです。

日本語では主辞と述辞が呼応しています。文末とその主体が呼応することで、両者が各々判別されます。「要」とは、主辞・述辞の対における重心です。日本語では述辞が文末に固定的に置かれ、判別が明確な「要」というにふさわしい安定した存在になっています。

     

2 「あのお寿司屋さんはおいしい」の主辞

具体的な例文を見てみれば、主辞と述辞の呼応がわかるはずです。「あのお寿司屋さんはおいしい」という場合、「お寿司屋さん」が主体になっているわけではありません。「おいしい」というのは「お寿司」です。主体は「あのお寿司屋さんのお寿司」になります。

こんなことは、あえて言わなくても伝わりますから、例文の「<主辞>は通常暗黙のうちにすでに理解されている」と言えるのです。主辞と述辞が呼応しているからこそ、こう言えます。ここでは文末を軸足にして、それとの関連で主体が理解されるということです。

主体となる言葉の一部が欠落しても、文末との呼応関係から理解に支障がありません。ただし、一部が欠落するのは、主体に限らない点に注意が必要です。文末も一部が欠落することがあります。これも主辞・述辞の呼応から、理解に問題は生じません。

     

3 「コンニャクは太らない」の述辞

たとえば「コンニャクは太らない」という例文を見て、文末が「太らない」とあるから、主体は人間だと考える人はいません。「コンニャク(を食べる人)は太らない」とはならずに、「コンニャクは太らない(食品だ)」というふうに解釈するということです。

これは「コンニャクが太らない」においても変わりません。「コンニャク(を食べる人)が太らない」という解釈は成り立たず、「コンニャクが太らない(食品だ)」となります。あれこれある食品の中の「コンニャク」が「太らない(食品)だ」ということです。

ここでは文末のカテゴリーが省略されています。主体が「コンニャク」であるならば、文末には、その解説・説明がなくてはおかしいでしょう。「太らない」という特徴を持った食べ物だろうと解釈されるのは、「暗黙のうちにすでに理解されている」ことです。

文末の一部が欠落することは例外とは言えますが、こういう場合でも、主体との呼応関係によって、理解に支障をきたすことはありません。主体と文末の呼応は理解の原則であり、言語形式を標準化していく過程でも原則として機能してきたということです。