■日本語の主辞と述辞:主体と文末の呼応が不可欠な構造

     

1 思考形式と主辞と述辞の構造

日本語の重心が文末に置かれているということは、通説の日本語文法では前提になっています。通説では文末を「述語」と呼び、センテンスの唯一の中核として位置づけています。センテンスが述語一本を中核にして立っているイメージといったところでしょう。

英語の場合、主語と述語が対になってセンテンスの中核を形成しています。二つのペアが相互に連携している構造です。私たちは、主辞と述辞で大枠を理解する思考形式を持っていますから、こうしたセンテンスの構造ならば思考形式と合致していると感じます。

日本語の場合、『日本語の歴史 7』でいう[私たちは、判断をする場合に、かならずある物(主辞)について何かを述べる(述辞)。その思考形式はどこへ行っても変わらない](p.58)との思考形式とは違う、ズレた別種のセンテンス構造だと思われがちです。

     

2 英語の軸足は主語

英語の場合、センテンスの中核がS+Vだということには異議はないでしょう。しかしこのSとVには別々の役割がありますし、対になるときに、両者が対等の関係になっているわけではありません。英語の場合、主語Sが軸足になる構造と言ってよいでしょう。

大西泰斗とポール・マクベイの共著『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』では、英語の[文の中心は何といっても主語]、[文は主語とその説明(述語)から成り立っている](p.7)と解説しています。主語が軸足になっているということです。

S+Vの構造では先にSが現れ、その相手となる述語動詞を探します。[英語では、主語は述語が横に並んでみてはじめて主語であることが了解されます。つまりネイティブは述語がはじまるところを「探す」のです](p.8)。軸足をSに置いた対の関係と言えます。

     

3 主体と文末の呼応が不可欠な構造

日本語ではセンテンスに「は/が」などが付く言葉が出てきた場合、これが主体になる可能性を考慮しながら読んでいくことになるでしょう。「彼が探していた本が書棚にあったので…」とあれば、読みながら「彼が」「本が」は主体にならないと判断されます。

このまま主体が記述されないこともありますし、「は/が」などの主体になる可能性を示す目印が出てこないこともあるはずです。この場合、それ以前の文章に、主体となる言葉が出てきているか、「私・私達」が主体になると判断できるようになっています。

英語の場合、主語であることがほぼ間違いない言葉があるからこそ、それを説明する述語動詞を探すのです。この確認によって主語・述語の関係を見出します。日本語の場合、文末という定位置に述辞が置かれますから、探す必要があるのは、対になる主体です。

文頭から読んでいき、文末に至るまでに主体が見出される構造といえます。複数の主体候補の語句が絞りこまれていき、文末で確定されるのです。日本語のセンテンスは、述辞となる文末を軸足にして、対の相手となる主体との呼応が不可欠な構造になっています。