■マニュアル作りのエッセンス:中井久彦『臨床瑣談』から
1 中井久夫のつくったマニュアル
日本を代表する精神科医だった中井久夫は、マニュアルの傑作を書いていました。『臨床瑣談』に「ウイルス学実験手技マニュアル」は1962年に作られ、[1995年くらいまで用いられて]いた[たぶん私のロンゲスト・セラーである]とあります(pp..99-100)。
精神科「往診マニュアル」も[あちこちでコピーされたともきく]とのこと(p.100)。マニュアルを作るのは、あんがい面倒なものですから、うまく作れる人とそうでない人とに極端に分かれます。まったく読んでもわからないマニュアルを作る人がいるのです。
中井は[マニュアルは不器用な人間がつくるもので、人の二倍試験管を割る私にはその資格が十分あった]と書いています(p.100)。不器用なら、いいマニュアルがつくれるとは言えないでしょうが、ある種のヒントになる言葉です。どういうことでしょうか。
2 不器用な人を基準に記述
中井はウイルス学から精神医学に転身して、統合失調症の研究で画期的な成果を上げます。治療方法を自分で構築してきた人です。こういう人ですから、ルールや仕組みを作るという基礎が盤石でした。さらに自分のマニュアルの特徴を記しています。
▼実験室内のクシャミの仕方とか、遠心機を回すときはネクタイを外せ(万一巻き込まれると首が絞められて生命にかかわる)と書いてあるマニュアルは他にみたことがないと、そうそうたるウイルス学者がほめてくださったことがある。 p.100
器用な人なら、この種のことは言わずとも、あるいは意識しないうちに行います。不器用な人でない限り、基本的な注意は必要ないでしょう。しかしマニュアルを作る場合、器用な人、言わなくてもわかる人を基準にしたらリスクがあります。不器用な人が基準です。
3 マニュアルづくりのエッセンス
中井のマニュアルは長く使われて、[震災後に講演に招かれた神奈川県戸塚保健所では、かつての同僚が保険所長で、ぎっしり書き込みのあるマニュアルのコピーをくださった](p.100)ということですから、良いマニュアルだったに違いありません。
中井は研究するだけでなくて、実際の治療にも関与していました。それだけでなくて、検査法を構築して治療に役立てています。治療法を確立するということは、標準的な手法を確立することです。標準的な手法があるからこそ、改善が促進されていきます。
標準化と仕組みを構築することが、マニュアルづくりの一番の基礎というべきものです。この基礎があるからこそ、良いマニュアルがつくれたといえます。この際、基本的なことから記述しないと心配になる「不器用」な人に基準を置くことは不可欠な条件です。
さらに[重症度の高いもの、後遺症の残りやすいもの、間違うと取り返しがつかない確率の高いものから先に考えるのが臨床的思考である](p.158)という点は、マニュアルの記述の基本的条件になります。以上、マニュアルづくりのエッセンスというべきものです。