■日本語文法学者との「見解のズレ」と「考え方のズレ」:『24週日本語文法ツアー』

    

1 ガイドブックの解説書

益岡隆志『24週日本語文法ツアー』という本があります。著者は『基礎日本語文法』という日本語文法の本でもかなり使われている本を書いた人です。日本語文法の本を24週間もかけて読むのは大変な気もします。とはいえ180頁足らずの本ですから読めそうです。

ただ、この本のガイドブックとなるのが『基礎日本語文法』であると記されています。この本の章のおわりに、ガイドブックの該当部分を示して、[読んで復習しておいて下さい]という形式になっています。この本だけを読むのではいけないようです。

それはそれとして、まあいいか…と、この本だけを読み始めました。先になかなか進みません。どうも引っかかってしまいます。この本の考え方が教科書的である点が原因なのかもしれません。ビジネス人向けの講義をしていると、何だか心配になってくるのです。

      

2 直観が働く事例として示された例文

第1週「出発の前に」には、日本語を母語とする人には[日本語表現についていくらでも直観が働く]と書かれていました。具体例をあげて、aとbの例文にある[「自分のセーター」というのは、誰のセーターのことだと思いますか]と問いかけています(p.3)。

a「孝子は幸司に自分のセーターを着せた」、b「孝子は幸司に自分のセーターを着させた」です。[たいていの人は、aでは孝子のセーター、bでは孝子のセーターか幸司のセーター、というように判断するのではないかと思います]とあります。

ビジネス人ならば、たいていの人がどう感じるかではなくて、誤解のない言いかたはどうなるかという意識が働くことでしょう。例文を修正したくなるのです。直観が働いて、かなりの人が同じように考えるにしても、もっと誤解のない言いかたが気になります。

      

3 「見解のズレ」に先立つ「考え方のズレ」

aを修正するなら、「孝子は自分のセーターを幸司に着せた」の方がよさそうです。さらに誤解を減らそうとしたら、「孝子は彼女のセーターを幸司に着せた」になるかもしれません。一方、例文bは「着させる」に引っかかる人が出て来るだろうと予測されます。

「着させる」の場合、孝子が命令して、実際に「着る」のは幸司です。この点、ビジネス文を書くときに気にするのは、この言いかたでは誤解を生じさせかねないということになります。「着るように言った」のほうがよいという発想になりがちです。

「直観がいくらでも働」いて、幸司が自分のセーターを着るのか、孝子のセーターを着るのか、判断できない文章がなくなればよいのですが、そうはなりません。bは「自分のセーターを」と書くと曖昧になって、「彼女のセーターを」にすべきだとなります。

直観が働くこと自体は正しいでしょう。しかし直観が働いた結果、誤解のない表現にならなくては、意味がないのです。見解のズレだけでなくて、考え方のズレがあることに、やっと気づきました。新たな発見を生む本かもしれなくて、少しずつ読んでいます。