■国家の基礎となる教育訓練:宮崎市定『科挙』「後序」
1 「科挙」を知らしめた本
受験地獄という言葉がありました。これを現代の科挙だという表現もあったかと思います。いまは少子化が進んで、受験地獄という言葉もあまり使わなくなりました。それでも「科挙」という言葉をご存知の方もかなりいらっしゃることでしょう。
科挙という言葉は1963年刊の宮﨑市定『科挙』がベストセラーになって普及しました。宮﨑はのちに[新しい知見の創造でなくても、世間が要求している知識ならば、普通の常識を提供することでも、立派な貢献](全集15 自跋)だと考えるようになったそうです。
『科挙』「まえがき」で[私の任務は過去の事実の中から最も大切だと思われる部分をぬき出して、できるだけ客観的に世間に紹介するにある。事実こそ何ものにもまして説得力があるものである]と語っています。この本の成功の要因は、ここにありそうです。
2 終身雇傭制が問題
宮﨑はしかし、事実だけで完結するとは思っていませんでした。『科挙』「後序」で、本文では[ありのままに叙述して]きたが、[何かしら大切なことをいい落としたような気がしてならない]と言い、日本の試験についての考察をしています。これが貴重です。
日本の試験制度は、アメリカのものよりも中国の科挙制度に近いと言い、[主として官吏養成の目的で設けられた点に何かしら共通なものをもっている]と指摘しています。ともに[社会の地盤には十分な近代的条件がそろっていなかった]ことも共通する点です。
日本の場合、[労働市場の狭いことから、終身雇傭制が社会のいたるところに行われている点が、入学試験地獄の発生する、一つの社会的地盤になっている]といえます。[最終学校の卒業と就職とが密接に結合し]ていて転職が困難な点が問題でした。
3 十分な教育訓練が国家の基礎
宮﨑は[日本の試験地獄の底には、封建制に非常に近い終身雇傭制が横たわっており、これが日本の社会に真の意味の人格の自由、就職の自由、雇傭の自由を奪っている]と指摘します。終身雇傭制を日本のよき慣習のように言うのとは全く別の意見です。
▼在学中に十分な訓練を施して、たとえ困難な試験を通って入ってきた者でも、その訓練に堪えられないような者は、どしどし出直しさせるような処置をとり、同時に十分な訓練を施すに足るだけの施設と教官の確保に努めなければならないと思う。
いまや終身雇用制は公務員以外では、ほどんとなくなりました。しかし十分なトレーニングを大学で行っているとは思えません。日本の教育は遅れているのです。宮﨑はカネがかかるのは当然のことだから予算をつけるようにと言い、教官の質も問うています。
[最も進歩的であるはずの大学さえも教官を定年まで丸抱えにしたつもりでいる。これではいったい、どこから本当の日本社会の完全近代化が始まるのであろうか]。十分な教育訓練が国家の基礎になるのです。日本では、まだ不十分だと言うしかありません。