■『伊勢物語』第一段の「女はらから」:用語の使い方が一番の基礎

     

1 『伊勢物語』第一段

文法は、古典を正確に読むために必要なものですし、的確な文章を書くときにも役に立つはずです。必要なものであることは、当然のことだろうと思います。同時に、文法が読み書きのサポートのすべてを担うことなどできないのは、言うまでもありません。

文法は役に立つけれども、限界があるということが原則です。一番の基礎になるのは、文法よりも、個々の言葉の意味がどうであるかということになります。使われる用語の意味が書き手と読み手で違っていたら、その文の意味が正確に伝達されたことになりません。

そのいい事例が小松英雄の『伊勢物語の表現を掘り起こす』にあります。『伊勢物語』の第一段の話は、どこかで聞いたことがあるかもしれません。男が狩りに行き、そこで「女はらから」を見つけます。男は狩衣の裾に歌を書いて送ったのでした。

     

2 「女はらから」は「二人姉妹」ではない

これまでは、「女はらから」を「二人姉妹」であると解釈するのが[伝統的な共通理解](p.5)であったと言えます。しかし小松は、男が[熱烈な恋心を打ち明けた和歌を、同居している姉妹に贈ることなど常識で考えられるでしょうか](p.6)と問うのです。

▼数百年もの間、万人の判断を狂わせつづけてきたのは、「女はらから」の意味を調べる必要があることに気づかないまま、何の根拠もなしに<ふたり姉妹>と決め込んできたことだったのです。思い込みによるその決めつけが、この挿話の内容大きく歪め、それに続く初段の解釈にまで尾を引いています。 p.7

言われてみれば、その通りです。「ふたり姉妹」と解釈するにしても、なぜ[一人ではなく、また、三人、四人でもなく、ふたりだとわかるのか、その根拠が示されておらず、注もありません](p.41)。従来からなされてきた解釈は、おかしいでしょう。

     

3 用語の使い方が一番の基礎

小松は第41段に「おんなはらからふたりありけり」とあるのを挙げて、[ここには、「ふたり」と、はっきり書いてあります](p.43)と指摘しています。また『源氏物語』の「野分」のなかにある「はらから」の用例を提示して、ここでの意味を確認するのです。

さらに小松は、岩波古語辞典の「はらから」の項目が、[もと、同母から生まれた血縁の者。後に父系的社会になったからか、同父異母の場合にもいう]となっているのを示します。[「をとこ」とは母の違う「はらから」](p.47)ということなのでしょう。

▼幼児に見知っていた異母妹が、初々しい上品な女性になって、懐かしい奈良の京で、簡単にのぞき見されるほど質素な家に住んでいるのを見て、「をとこ」は、見るに見かねる気持ちになり、冷静な判断を失ってしまいました。冷静な判断を失ったとは、「はらから」に恋をしてはならないという制約的社会慣習を守りとおすのが我慢できないほど切ない心境になったということです。 p.49

小松の解釈は通説になってはいませんが、これで決まりでしょう。古典の場合、古い用語がありますから、解釈は簡単ではありません。現代であっても、用語の概念が正確に伝わらなかったら、伝達は不正確になります。用語の使い方が一番の基礎といえるでしょう。