■小松英雄の難問解決の際の自戒:うかつに膝を叩かないこと

     

1 両雄:小西甚一と小松英雄

日本語や日本文学の著作で今後も残りそうなのは、小西甚一と小松英雄のものです。小西は1915年生まれ2007年没、小松は1929年生まれ2022年没。二人とも最晩年まで質の高い文章を書き、ともに東京教育大学・筑波大学系の出身者で教授を務めました。

小松は『丁寧に読む古典』で、小西の論証に言及しています。「いつしかと またく心を 脛(ハギ)に上げて 天の河原を 今日や渡らむ」という『古今和歌集』の歌をあげて、「またく」の意味が小西の解釈を基礎にして、通説化したと指摘しているのです。

ここでの小松の解釈と自戒は、興味深いものだと思いました。本来はビジネスとは別領域の、それも学問のお話ですが、おそらくビジネスをリードする人たちも、ある種の教訓として興味をお持ちになるかもしれません。以下、簡単にご紹介しておきます。

      

2 小西の解釈への異議

「いつしかと またく心を 脛(ハギ)に上げて 天の河原を 今日や渡らむ」の「またく心」を小西は、「織女の心が牽牛に向かってまつしぐらに馳せる意と解するならば、もっともこの歌に適はしい」と解したのでした。それまでとは違う解釈をしたのです。

小西の解釈には説得力がありました。その結果、この解釈が継承され、「またく心」は「跨ぐ心」であり、[中国において派生した<まっしぐらに馳せる>、<焦り逸る(ハヤル)>、<はやり立つ>などという意味だと取り違えられてしまいました](p.188)。

小松はこの点、[動詞マタグは、馬が日本に導入されるまえからあって、小川の流れや、倒木などをまたいでいたと考えるのが自然です。その語構成は、[マタ(股)+動詞語尾グ]です](p.190)と解釈します。歌全体の解釈からも、小松の解釈で決まりでしょう。

     

3 難問解決のための自戒

小松は小西の解釈について、[開拓者的業績として一定の評価に値するかもしれません]と言いながら、[発見した事実を慎重に吟味せず、あらぬ方向に驀進してしまったことが惜しまれます](p.189)と言うのです。小松は、自戒を記しています。

▼手を焼いた難問が解決したとたん、うれしさがこみあげて、わかった! と思わず膝を叩きたくなりますが、膝を叩いたとたんに思考が停止するので、そこが行き止まりになってしまいます。しかし、そこで膝を叩かずに思考を継続すれば、さらにその奥にある、もっと大切なものが見えてくるものです。うかつに膝を叩いたら、発展性の芽を自ら摘んでしまいます。[小松英雄『自著解説』笠間書院・2007・Web版] 『丁寧に読む古典』 p.189

こうした心の動きは、ささやかなことであるならば、多くの人が経験していることでしょう。世の中の難問でなくても、自分には難問であることがあります。その程度の場合でも、ほんのちょっとした解決の糸口のところで、わかったと思ってしまいがちです。

わかったと思ったときに、「思考を継続すれば、さらにその奥にある、もっと大切なものが見えてくる」可能性はあるでしょう。検証しないで、できた、わかったと喜んでしまうと、「発展性の芽を自ら摘んでしまいます」。身に染みてわかる人もいるはずです。