■あらゆる言語に共通する基本的特性「線条性」:小松英雄『丁寧に読む古典』から
1 あらゆる言語に共通する基本的特性
小松英雄の『丁寧に読む古典』に「古典文法で説明できない構文」という章があります。「松も引き 若菜も摘まず なりぬるを いつしか桜 早も咲かなむ」という和歌で、「松も引き 若菜も摘まず」を、どういう風に解釈しなくてはいけないかを論じていました。
ここを[「松も引かず、若菜も摘まず」と、前にもズを補って解釈するというのが解釈文法の立場です]が、しかし[あらゆる言語に共通する基本的特性を無視した、とうてい成り立ちえない解釈なのです](p.136)ということです。なぜでしょうか?
▼話し手がどういうことをどのように話そうとしているのか聞き手にはわかりませんから、聞き取った順序を追って理解を重ねていきます。すなわち、聞いたところまででそれなりの理解が形成され、話が進行するにつれて順次に理解が更新されます。言い換えるなら、コトバの理解は一本の線条として形成されるということです。 p.136
2 「蜉蝣の夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬも」
先の「松も引き 若菜も摘まず なりぬるを…」を解釈する場合、[松も引き、若菜も摘みて、長寿延命をお祝いすることを楽しみにしていたのに、それが実現でいなかったので、という表現です]。こう解釈するのが[言語の線条性]からも妥当でしょう(p.137)。
つまり[松を引くことと若菜を摘むことが、<AもBも>という不可分のセットとして表現されてい]るのです(p.137)。後ろに影響されて、前の肯定形を否定形に変えるのではなくて、前は肯定形のまま、後ろも肯定形にして、その両者を否定する形式をとります。
有名な「徒然草」の「蜉蝣の夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」の解釈も「夕べを待たず」にはなりません。「カゲロウが夕べを待つことも、夏の蝉が春や秋を知ることも」両者を否定する、「待つことも知ることもない」という形式になるのです。
3 理解の形成⇒理解の更新⇒意味の確定
日本語の場合、様々な言葉を連ねたあと、文末でひっくり返されることがあります。「佐藤さんは、お金持ちで、成績もよく、スポーツ万能で、誰からも愛されるという人ではなかった」と言う場合、「という人ではなかった」でオチをつけている感じです。
小松が言う通り、まず最初に「聞いたところまででそれなりの理解が形成され」ます。次に「話が進行するにつれて順次に理解が更新され」ていくのです。最後の更新が文末でなされて、センテンスの意味が確定するということになります。
センテンスの意味をとってから解釈をすると、自然な読み取りとは違った形式で解釈することになりがちです。誰かを、あまりに持ち上げすぎていたら、最後に落とすつもりだなと推定しながらも、しかし持ち上げる言葉をそのまま受けて、追跡していきます。
この点、和歌では、あえて複線構造にする作品もあるようです。「もみぢ葉の 散りて積もれる 我が宿に たれをまつ虫 ここらなくらむ」の「たれをまつ虫」は、[初読が「待つ+虫」、次読が「松虫」]になります。小松の解釈法は自然で、信頼できるものです。