■「形容動詞・ナ形容詞」の解体:小松英雄『日本語はなぜ変化するか』から
1 品詞概念の標準化
英語の場合、品詞概念が確立しています。時間をかけて品詞を標準化した結果、[品詞分類に基づいて正確に理解できることこそが、印欧系諸語の本当の特質なのである]ということになりました(渡部昇一『アングロ・サクソン文明落穂集12』:p.111)。
日本語では、「印欧系諸語」のように品詞概念を確立させるのは難しいかもしれません。しかし「動き」という言葉が出てきたとき、動詞なのか名詞なのかを考えることは可能でしょう。「動き・です」となる場合なら名詞、「動きます」となるなら動詞です。
日本語の品詞概念も、もっと整理できるかもしれません。小松英雄は『日本語はなぜ変化するか』で、「静か」という言葉に「静かな」と「静かに」という[セットが形成された](p.262)と記しています。そうであるなら、前者は連体詞、後者は副詞です。
2 連体詞と副詞のセット
形容動詞という品詞を考えるのは、おかしいのではないかというのが小松の考えです。平安時代には、「海は静かに、波穏やかなり」という言い方がなされていました。[平安時代に上述のような独立の活用体系が存在したことは確実である]と書いています。
しかし[現代語にはそれが継承されていない](p.263)のです。活用体系がなくなり、セットが形成されたということになります。いわゆる「形容動詞」あるいは「ナ形容詞」というものは、少なくとも現代語にはなくなったということです。
「形容動詞」とされた言葉は、「静か」と同様にセットで考えることができます。「幸せ」という体言(名詞)に対して、「幸せな」(連体詞)と「幸せに」(副詞)のセットで考えればよいということです。「幸福」でも「幸福な」「幸福に」のセットになります。
3 シンプルな体系が必要
かつて存在していた活用体系であっても、もはや継承されなくなったら、扱いが変わらなくてはおかしなことです。品詞概念を見直す必要があります。こうしたことなしに、品詞分解をすることは、意味のないことでしょう。この点を、小松は批判しています。
▼学校文法の品詞分解は、現実に運用される言葉としてではなく、生命のない仮名の連続を観念的に操作しているに過ぎない。死体を切り刻んでも血は出ない。 p.261 『日本語はなぜ変化するか』
[品詞分類は、とかく、抹消にこだわりがちである]と小松は書いています。また[かつては、品詞論が文法論の基礎であったが、現今の言語学では影が薄くなっている](p.257)とも書いていました。読み書きに使えなくては、品詞概念には意味がありません。
「形容動詞=ナ形容詞」を解消させて、「連体詞・副詞」のセットで考えるなら、シンプルな体系なので使えます。細かすぎる品詞分解は無意味ですが、最低限の標準化は必要でしょう。大切なのは使えるかどうか、シンプルであるかということになります。