■「言語形式」と「思考形式」のすり合わせ:日本語文法が目指すべき方向
1 外形を絶対視する思考
日本語の文法を再構築すべきであるという考えをもったのは、失語症の方々とのおつき合いからでした。ほぼ十年、おつきあいさせていただきました。言語聴覚士の行う訓練に効果がないのは常識になっています。独自の方法を考える必要がありました。
言葉の習得に関して、障害のある人と、発達過程にある小学1年生とでは、習得スピードが全く違います。しかし共通性もあるはずです。小学生の作文練習の指導もしてみました。練習法の基本となる発想は同じです。明らかに効果が違うと感じました。
どうやら日本語の文法学者が前提にする考えが、間違っているのではないかと思ったのです。言語形式を考えるときに、外形を基準の一つにするならまだしも、絶対視しすぎています。ずいぶん後進的の考えです。別の学問なら、ありえないことでしょう。
2 「言語形式」と「思考形式」
文法を表現に即して考えることが、なぜヘンなのでしょうか。内容の実質を考えないことになるからです。『日本語の歴史7』に記された用語で言うと、外形の記述にあたるものが「言語形式」、実質的内容にあたるものが「思考形式」になりそうです(p.57)。
言語形式の構造を考えるだけでは、言葉の理解の構造が見えてきません。日本語では、「行く」というだけで通じる言語形式をもちます。このとき,[あいまいさをさける必要のある場合、「私ガ」とか「アナタガ」が付加される]という見方をするのです。
▼つまり、「私ガ」、「アナタガ」はそれが省略されているのではなく、むしろ、<補語>なのであり、思考のなかにある<主辞>は通常暗黙のうちにすでに理解されているのである。かくて、日本語の要は<述部>にあるということになる。 p.58 『日本語の歴史7』
3 思考形式とすり合わせた上での構築
記述だけから構造を見ていくと、思考の構造との乖離が生じます。[私たちは、判断をする場合に、かならずある物(主辞)について何かを述べる(述辞)。その思考形式はどこへ行っても変わらない](p.58)とあります。この思考形式とずれた文法では使えません。
日本語の場合、文末という固定の位置に「述辞」があるため、安定した要になります。この安定性があるため、「主辞」を推定可能とする構造が構築できました。だから日本語の言語形式は、[<主辞>は通常暗黙のうちにすでに理解]できる構造になったのです。
主辞が記述されない外形のみを見るのでは、戦前の「法治主義」と類似の欠点をもつことになります。「法治主義」は、客観的に判断できる手続きに焦点を当てて、法律の実質的な内容を問わない概念でした。その結果、専制を許すことになって破綻したものです。
一方、「法の支配」の概念は、実質的な法内容を問います。戦後の「法治主義」は法内容を問う形式に修正して、「法の支配」と同じ概念になりました。記述された外形だけでなく、思考形式とすり合わせた上で文法を構築しなくては、使える文法になりません。