■「美しい日本の私」という日本語をどう分析するのか
1 ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」
川端康成がノーベル賞受賞の記念講演で演説したのが「美しい日本の私」でした。1968年の講演ですから、ずいぶん前のものです。何かで話題になったのでしょうか、この演題の日本語が、どういう構造になっているのかという話がありましたので、書いておきます。
「美しい」が「日本」にかかっていることと、「私」との関係がわかりにくいというのです。しかし、たぶんわかっていながら聞いているのだろうという気がします。日本語の構造と、その解釈の仕方がどうなのか、そのへんのルールが知りたかったのでしょう。
これに似た事例に「眠れる森の美女」の構造がどうなっているのか、というものがありました。こちらは、「眠れる美女」+「森の美女」になるでしょう。「眠れる森」にいる美女ならば、【「眠れる森」の美女】となります。これを踏まえて考えてみましょう。
2 「美しいAのB」=「美しいB」+「AのB」?
「眠れるAのB」が、「眠れるB」+「AのB」となるならば、「美しいAのB」は「美しいB」+「AのB」となるはずです。そんな気持ちから、「美しい日本の私」の構造を聞いてきた気がします。「美しい私」+「日本の私」では、たしかにおかしいのです。
どう考えても、ここは【「美しい日本」の私】の意味でしょう。「美しい私の日本」ならば、「美しい日本」+「私の日本」になりますが、川端は、美しい日本の中にいる一人の人間としての自分を語っていますから、「美しい日本」と「私」の関係になります。
実際のところ、「美しい日本の私」の場合、「美しい日本」という区切りが自然です。逆に「美しい私」+「日本の私」と考えるほうに違和感があるでしょう。日本語の場合、形式だけでなくて、全体としての意味が自然であるかどうかで判断されるということです。
3 文意の自然さで判断
日本語の場合、形式だけでなく、文意が自然かどうかで判断される-こう言うと驚く人もいます。明確性を重視したいのなら、【「美しい日本」の私】という記述になりますが、しかし、そう言わなくても、その意味だと分かるよねということです。
ここでいう自然かどうかというのは、たしかにあいまいな基準と言えます。おそらく今後、「眠れる森の美女」よりも、「森に眠る美女」といった言いかたに向かい、「眠れる森」にいる美女ならば、【「眠れる森」の美女】の形式になっていくように思います。
「有名な学校の先生」という言いかたなど、「有名な先生」+「学校の先生」と受け取れますが、「有名な学校」の先生…でも不自然ではありません。こういう場合、「学校の著名な先生」「有名校の先生」といった明確性を意識した表現が必要になるでしょう。
日本語の場合、これでわかるかどうか…という基準が重要です。「あのお寿司屋さんはおいしい」と言われて、お寿司がおいしいことだと、わからないのは問題でしょう。しかし明確な言いかたにするための工夫やルール化が、不十分な点があるのも確かです。