■日本語に表れる日本人の性質から文法を考える:金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』
1 日本語に表れる日本人の性質
金田一春彦が『ホンモノの日本語を話していますか?』で、日本語の特徴をあげています。発音、文字、文法、単語などに特徴があるのは当然のことでしょう。そして「日本語に表れる日本人の性質」のほうに、特徴を生じさせる根本的な要因がありそうです。
中国人に日本語を教えたときに、「私はカントを読んだ」という文章の意味が解らないと言うので、カントはドイツの有名な哲学者だと答えたところ、知っているとのこと。そうではなくて、「カントを読んだって、カントをどうすることですか」と言うのです。
▼「決まっているだろう。カントの哲学書を読んだっていう意味だ」と言うと、「そう書いてあればわかるけど、ただカントを読んだ、というだけでは意味がわからない」という。これを読んでおられるみなさんだったら、「漱石を読んだ」と言えば漱石の作品を読んだことに決まっていると思うだろう。 p.74
2 簡潔な形式で、意味が伝わる表現
金田一は、「お湯を沸かす」「ご飯を炊く」「ホームランを打ちました」…といった例をあげて、おかしいと言われれば、おかしいというのです。「水を沸かす」のだし、「米を炊く」のでしょう。理屈を言えば、「ボールを打ちました」だというのです。
これらの言いかたは簡潔な形式で、意味が伝わるようになっています。「お湯にするために水を沸かす」とか「ご飯にするために米を炊く」などとは言いません。「ホームランは打てません、ボールを打つのです」という人は、日本語がわかっていない人です。
「あそこのお寿司屋さんはおいしい」というのは普通の表現でしょう。[まさかお店をがりがり食べるわけではない。それでも意味が通じる]のです。同じように[「俺はウナギだ」なんて言っている](p.77)。食べたいものがウナギの料理だというのは伝わります。
3 日本語の性格を基に、個々の論点を検討
[日本人は簡潔な言いかたを好む傾向がある](p.79)と金田一は言います。文章の効率化のために、正確に伝達し理解されるのならば、その表現がよいということです。これは日本語に限らないことでしょう。伝達・理解の観点から適切さが評価されるのです。
実際、英語でも「ホームランを打つ」は「hit a home run」のようですから、ボールを打つと言わないと理解できない人たちは、よほどの例外的な存在になるでしょう。大切なのは、原則的なルールがあって、それに沿って考えられるようになっているか…です。
日本語の場合、文末はカテゴリー分類を省略することがあるものの、主体のように記述しないことはよほどの例外と言えます。その点からすると、「俺はウナギだ」を分析することは可能です。「俺は/ウナギだ」ですから、文末は「ウナギだ」になります。
「ウナギだ」が文末だとすると、主体は何になるか、わかるはずです。「俺は」というのは、「俺(が食べたいの)は」でしょう。「ウナギだ」は「ウナギ料理だ」に違いありません。日本語の性格を基に、個々の論点を検討するのが自然だということになります。