■『論語』里仁「人之過也。各於其党。観過斯知仁矣。」の解釈をめぐって
1 4つの解釈
『論語』の里仁第4の7番目に「子日。人之過也。各於其党。観過斯知仁矣。」があります。宮崎市定の訳文でいうと「子曰く、人の過失にはそれぞれ癖がある。過失のありようでその人物がわかる。」となります(宮崎市定『論語』通し番号 73)。
おそらくこの解釈が通説的なものでしょう。ところが桑原武夫『論語』では4つの説をあげています。その解説をしたうえで、[以上四つの解のうち、いずれをとるかは読者の好みにまかせたい。私は断定する力がない](p.82)と書いているのです。
4つというのは、上記の朱子の解釈が一つ。吉川幸次郎もこの読み方を採っています。これに対して、伊藤仁斎と荻生徂徠の解釈があり、さらに[「党」を社会的身分]と解して、学者や農民ごと[における過失と受けとるべき]という解釈もあるそうです。
2 仁斎の「いかにも美しい日本的解釈」
[人の過失にはそれぞれ癖がある]だけでなくて、解釈にも、人それぞれの癖があります。桑原の解説を読みながら、伊藤仁斎と荻生徂徠の読み方が、まさにその人物を表しているように感じました。朱子の解釈、宮崎の訳文が妥当だと感じながらのことです。
桑原は[市井に住む寛容の哲人仁斎にとっては、朱子の解は冷酷にひびきすぎるのである](p.80)と記していました。[過ちをおかす人間のうちにも温かい仁の心は消えていないのだ。そこに人の本質があることを知るべきである](p.80)となります。
『論語古義』で仁斎は「人間の過失というものは、情の冷たさから生じないで、情の温かさから生じる」と解釈していました(『日本の名著 13』p.107)。桑原の言う[いかにも美しい日本的解釈]です。しかし、どうも無理があるように感じます。
3 徂徠の解釈への違和感
徂徠の場合、もっと強引な解釈です。[人民の過ちのあり方をみれば、そこの支配者である君主の仁つまり道徳の肯定、その影響いかんがわかる](p.81)というものでした。ただの人ではなくて「人民」であり、それは支配者たる「君主」の人物の反映なのです。
徂徠の『論語徴』は東洋文庫に入りましたので、読めなくはありません。子罕編「子罕言利與命與仁」(子、まれに利を言う。命とともにし、仁とともにす)の優れた解釈があることも知っていますが、調べる本だという気がします。谷沢は以下のように書きました。
▼荻生徂徠は頭脳鋭敏論理明晰表現卓越、不世出の才能が四方八方に煌めき輝いているが、ただ一箇所、人の世をかたちづくる普遍的な人情を、柔軟に理解し許容する能力だけは欠如していたのではあるまいか。 谷沢永一『高橋亀吉 エコノミストの気概』p.356
『論語徴』への違和感は、まさにこれです。「各於其党」の「党」を、類(カテゴリー)とするか、朋類(なかま)とするか、郷党(郷土の人々)とするかは、解釈に先立つ考え方の反映だということを感じます。こうしたことを身にしみて感じさせる章でした。