■「主観」の成立について:「考える我」と自説中心主義

     

1 客観的なことが基礎

客観的なことというのは、主観的なものが混じった中から、主観を抜いて成立したものという感じがあります。なんとなく私たちは、主観を入れたものであるのか、主観の入っていない客観的なものであるのかを、いつでもどこかで意識しているようなのです。

何で客観的であるのかどうかを気にするのか、たぶん簡単な理由でしょう。確たるものを基盤にして、ものを考えることが原則になっているからです。客観的であること、定量的であることは、基礎にするときに頼りになります。その確認がわかりやすいのです。

文書を構成する場合でも、図を作る場合でも、それが客観的かどうかを気にします。客観的な物事を基礎にして、解釈がなされます。解釈するとは主観的な行為でしょうから、客観から主観が生まれる感じがするのです。だから客観的かどうかが気になります。

     

2 「考える我」という概念の誕生

谷川徹三は『哲学案内』で、[中世のスコラ哲学では][まだ考える我というものが表面に出てきていない](p.75)と語っていました。谷川によれば、[私はその転換をなすものはデカルトのコギトであったと思っています](p.76)ということです。

デカルトの『方法序説』に記された言葉を、多くの人はご存じでしょう。[デカルトは「私は考える、それ故に私は在る」(コギト・エルゴ・スム)という命題をその哲学の根本として、そこから発足いたしました](p.76)と谷川は語っています。

現在言われている客観とか主観の概念は、近代的なものだということでした。「考える我」という概念が[近代哲学における主観の意味に決定的な方向を与えたので、そこのところからデカルトは近代哲学の父と呼ばれるようになった](p.79)と谷川は言います。

     

3 自説中心主義

何かを考えていくとき、事実から解釈していくという原則は、言い換えれば、客観から主観を導き出すということになります。このとき解釈をする主体は「考える我」だということです。私が考えたことはこれですと、自説を示すことが大切になってきました。

論文で自説を明確に書かないと評価されないのは、「考える我」が明確に見えないからということになるでしょう。その人の独自性、オリジナルなところが明確でないと、論文が評価されないのは当然のことです。文書を記すとき、もう一つの原則が必要になります。

論文を書くときに自説を中心に記述するということです。従来とは違った考えを出すときに、それまでの論文を考慮することは大切なことでしょう。しかし一番大切なことは、自説が明確であるということです。それを簡潔で的確に記すことになります。

ビジネス文書でも同じです。文書は簡潔なほうが効率的で正確に伝わります。簡潔に書く場合、どうしても自説中心にならざるをえません。その結果はどういうことになるでしょうか。おわかりの通り、「考える我」の評価がなされるということになります。

      

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