■形式が異なれば意味も異なる:池上嘉彦『<英文法>を考える』から

    

1 無理な想定を基礎にする伝統的な考え方

文法と意味について、池上嘉彦が『<英文法>を考える』で記しています。[伝統的に強い考え方は、<文法>は<意味>とは関係なく扱える]、[<文法>とは要するに語(あるいはそれに準じる単位)の間の結合、配列を規定するもの](p.71)だというのです。

こうした立場からすると[文法形式が異なる二つの文であっても、それが一定の書き換え規則で][書き換えが可能][意味は同じである]ということになります。しかし別の考えでは[「形式が異なれば意味も異なる」というテーゼを立てる]のです(以上p.72)。

当然のことながら[<文法>は<意味>と関わらないという想定がいかに無理であるかということの認識](p.74)が広がりました。文法を学ぶとき、意味が関連づけられていなかったら困ります。何のために文法を学ぶのかわからなくなるはずです。

     

2 日本語文法の問題点

池上の指摘したことは、英文法に限りません。日本語文法にも、あてはまることですし、実際、このことが問題になっていました。大野晋は『日本語練習帳』の中で、恩師の橋本進吉の学説が基礎になっでできた学校文法について、問題点を指摘しています。

[学校文法で、センテンスを分析するために、「文節」](p.68)を使いますが、[しかし「文節」の考え方には本来、センテンスの中の、意味どうしの「意味のかかり具合」の説明がない](p.69)のです。これでは日本語の文構造が見えてきません。

▼いったい日本語とはどんな基本構造を持っているのか、という問いが、日本人の心をよぎります。その時、文法学が、「肝心なことはここです」と教えなくてはいけない。それができていない。 p.47 『日本語練習帳』

    

3 二つの英文の意味の違い

池上は『<英文法>を考える』で、意味の違いについて、具体的な事例で説明しています。[この二つの文が<意味>が異なると言われるのはかなりなショックかもしれないが、確かに異なりうるのである](p.87)として、以下を上げています。

a) John showed Mary a photo.
b) John showed a photo to Mary.

a)の場合、ジョンが写真を差し出したのに対して、メアリがそれを見るということが想定されているとのこと。b)の場合、メアリが写真を差し出されたのに気がつかないこともありうる、つまりジョンの行為だけに焦点が当たっているとのことです。

日本語でもこうした意味の違いがあります。「ジョンはメアリに会いました」と「ジョンがメアリに会いました」の違いもそうでしょう。「は」と「が」に機能の違いがあるということです。これが文構造にどんな違いをもたらすのか、説明が必要になります。