■日本語の文構造における文末の機能:文末の4系統

      

1 文末の記述は不可欠

日本語の文構造を考えるとき、主体の記述を不可欠としない点は重要です。河野六郎はこうした言語を「単肢言語」と命名しています。単肢言語の場合、インドヨーロッパ語のように主語と述語の二つとも記述しなくてはいけない両肢言語とは違う構造です。

日本語の場合、文末とその主体との対応関係を作るときに、主体の記述を不可欠としていません。主体がわかっている場面ならば記述は不要だということです。一方、文末の記述は不可欠だということになります。よほど特殊な場面でしか、記述が抜け落ちません。

記述されないということと、省略とは別のことです。前回ふれた「私はたぬき」の場合、主体は「私(が食べたいの)は」、文末は「たぬき(うどんだ)」と考えられますから、主体も文末も省略された形式になっています。記述されないのと省略は違うということです。

     

2 文末に価値評価が入る場合

単肢言語の場合、文末が省略されることはあっても、記述されないことはないと考えるのが原則でした。したがって、「私はたぬき」が「私はたぬきうどんが食べたい」の省略形だということにはなりません。文末の「食べたい」が欠落することがないからです。

「この花はきれいだ」というときに、「きれい」という価値評価が入っている以上、それは人間が介在しているという指摘があります。その通りです。しかし、大切なのは文末が欠落しているかどうかです。「私は・この花はきれいだ・と思う」にはなりません。

省略されることがあったとしても、欠落は通常の文では考えられないということです。文末に対し、その主体が何であるか、明確であることが求められています。「きれいだ」という文末の主体が何かと言えば、「この花」ということです。

      

3 文末が主体のカテゴリーを規定

日本語の文構造からすれば、文末は「きれいだ」で決着しています。ここに価値評価が入っているというのは、単純なことなのです。文の構造が変わるわけではありません。「私は…と思う」という構造にはならないということです。

形式が変われば、ニュアンスが変わり意味が変わります。意味の変化を伴わないのは、省略の場合です。「この花はきれいだ」に価値評価が入るのは、主体側の問題だということになります。「この花」についての価値評価であることは、文末で示されているのです。

日本語の文末は、①行為・現象を示す系統、②状態や評価を示す系統、③説明・解説を示す系統、④存在を示す系統…の4系統に分かれます。「きれいだ」ならば②の系統です。「咲いている」なら①の系統、「リラだ」なら③の系統になります。

文末に重心がある日本語の場合、主体がどんなカテゴリーなのかを文末の言葉で判断しているのです。存在の系統の場合、「ある」と「いる」で主体の性質が区分されています。文末が「いる」ならば、主体が知らない言葉でも生き物だと判断できるのです。

     

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