■日本語の構造から考える主体と文末:「私はたぬき」の構造

  

1 カテゴリーの省略

日本語は文末に重心の置かれる構造を持っています。主体が誰でもわかるものなら、記述しないのが標準的なスタイルです。それが標準だとしたら、省略とは言えません。そこで河野六郎は、主体を必要に応じてしか記述しない言語を単肢言語と呼びました。

単肢言語の場合、文末は記述されます。文末が記述されないことは原則としてないということです。しかし主体も文末も、一部が省略されることはあります。「私のが一番だ」という場合、「私の」のあとに、本来あるべき何らかの言葉が省略されているのです。

「コンニャクは太らない」の場合、文末が省略された形式です。太らない「食品・食べ物だ(です)」というカテゴリーが省略されています。場面によっては、略式の言い方も可能です。うどん屋さんで「たぬき」と言えば、「たぬきうどん」のことだとわかります。

     

2 主体と文末の対応関係

うどん屋さんで、「私はたぬき」と言った場合はどうでしょうか。文末の「たぬき」は「たぬきうどん」ですから、「私はたぬきうどん」になります。しかし「私」は「たぬきうどん」という料理ではありませんから、このままでは対応関係は成立しません。

ここで問題になるのは文構造です。日本語の文では、主体の記述が不可欠ではありませんが、文末の主体にあたる概念は存在しています。文末が確認できたら、その主体がわからなくてはヘンなのです。こうした対応関係を成立させる主体と文末が必要になります。

「私はたぬきうどん」というのは簡単な例文ですから意味は通じます。主体と文末の対応関係を直感的に作ることも容易でしょう。こういうとき、「私はたぬきうどんが食べたい」が本来の形だったという主張がなされたら、妥当なものだと言えるでしょうか。

    

3 「私の食べたいのは」+「たぬきうどんだ」

「私は」と「たぬきうどん」の間に対応関係が成立するためには、どちらか、あるいは両方に省略があると考えられます。この場合、すでに文末のカテゴリーの省略を埋めていますから、「食べたい」に類する言葉の欠落を考えるのは無理筋と言うしかありません。

後ろに重点のある構造をとる日本語の場合、文末に重心がかかります。主体とは違って、文末を記述しない形式はよほど特殊な場面でしか考えられません。「私はたぬきうどんが食べたい」の「食べたい」という文末が欠落することなどありえないことです。

主体の省略と考えるしかありません。「私のが一番だ」の類型がありました。「私の食べたいのは」や「私の欲しいのは」が省略されて「私は」になったということです。本来の「主体+文末」は、「私の食べたいのは」+「たぬきうどんだ」ということになります。