■すぐれた吉川幸次郎の『論語』注釈:一部の誤解について

     

1 吉川のケアレスミス

吉川幸次郎『論語』は、日本を代表する注釈書として高く評価されています。私も大切にしている本です。しかし少し前に、この注釈に間違いがあってダメらしいねといった人がいました。もしかしたらと思ったのが、呉智英『現代人の論語』にある以下の文章です。

▼支那文学の専門家も、緻密な注釈に従って何度も読み返している、というのである。
ところが、この吉川論語には、初学者にでもわかるミス、いや、ちゃんと通読さえすれば中学生にでもわかるミスがある。 p.12 『現代人の論語』文春文庫

呉は[大変有名な一章で]ミスをしたというのです。孔子の長男伯魚は孔子よりも先に亡くなっています。ところが吉川は「孔子没後の問答である」と書いていました。伯魚が[孔子没後]に問答できるはずないというのです。たしかにミスでしょう。

この本が一部の人の印象に残ったのかもしれません。先の文章の後に[この程度の勘違いなど誰にでもあることであり、大碩学吉川幸次郎にもこんなミスがあるということは微笑ましくさえある](p.14)と書いておいてから、呉のアジ演説が始まるのでした。

      

2 事実とは違う呉の主張

[私が問題にしたいのは]と呉は言います。[累計数十万部に達するこの本のミスに、読者の誰も気づかないことである]、[吉川の生前だけでも二十一年間、このミスの訂正について誰も吉川に進言しなかった](p.14)と書いていました。一方的な主張です。

このあと、さらにエスカレートして[吉川論語の三十万人の愛読者は、これを買ったはいいが、せいぜい公冶長篇までしか読んでいない、いや、それさえも怪しい「積読者」ばかりなのである](pp..14-15)という話に展開しています。わきの甘い話です。

『吉川幸次郎全集』第二十一巻に「論語 補註」があります。吉川は、[私は不用意にも、「なににしても、孔子没後の問答である」とした。不注意を指摘されたのは、中嶋利郎氏である](p.183)と、1974年の10月の文章に書いているのです。

      

3 日本を代表する注釈書

吉川は「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」(過失を犯したら、躊躇なく改めよ)」と注釈したことを忠実に守りました。きちんと読めば、吉川の論語の凄さはわかります。為政篇「子曰く、異端を攻むるは、これ害あるのみ」の「異端」の解釈など、すごいものです。

異端という語は[論語のこの条のみに見え、その確実な意味を帰納しうべき更なる使用例が、他の所に見えない][普通に示す意味の範囲を、はるかに上回った意味を、もっていないとはいえぬ][最も慎重な態度をとれば、この条の本来の意味は、わからない]。

吉川は貝塚茂樹の『論語』に対して、事実に基づいた堂々たる批判をしていました。自分の注釈にも厳しい態度を貫いています。朱子(宇野哲人・論語新釈)、伊藤仁斎の後を代表する日本語の論語注釈書は、吉川幸次郎、平岡武夫、宮崎市定の三冊かもしれません。

       

       

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